天が糸を、 たん を織っている。
 雨の降りしきる庭に しゃく を向けた主上が呟けば、老若男女の別なく 追従 ついしょう の笑みがあふれた。されば天の反物には劣れども優れたる 織手 おりて 、あわわの つじ く鬼神やいずこかの 神気 じんき 持つものが欲するような作を披露せんと人が動く。機敏な裾の 翻る ひるがえ 向こうにある帝の顔色を 窺っ うかが た彼がそっと席を立ち、場を離れても誰も気づかぬ。
 濡れた土が泥というのさえ みやび なことよと笑む習わしに生きる者共だ。 所詮 しょせん 、ものを喰うのに命を奪うことが無意識のうちに道理であった己とは合わぬのだと、ひとり 阿呆 あほう の笑いを雨の降りかかる池に向けた彼のため息が 強張 こわば った。
 池には無い反物の色彩がひとつ、水面に映る己の影の側に増えている。
「みか」
 声を発しきる前に、見覚えのある笏が彼の肩に触れた。
ちん の退屈は読むのに、晴らそうとはしてくれぬのか」
  とが めならば、あの場に したまま、あやつが らぬと呟けばよい。帝が望むは の日に 罪人 つみびと を生み出すことではない。見かけのみが あで やかな宮中の日々に花ではない名も無き草を、それも花実も結ばぬ りょく すらまともでない貧相な 一草 いっそう を生やし、雨風や陽の本当のところを知るそれらを 育む はぐく ことなのだ。
 それが己だと自覚する彼は帝の笏があるために振り返ることもできない。ただ役目に付属する特権でもって、直立したまま 雨庭 あめにわ の池に映るやんごとなき影に答えた。
「お嫌ならば、 物忌 ものい みと仰せられませ。帝の望みを妨げられるものは居りませぬ」
陰陽師 おんみょうじ 天文 てんもん 博士も困ると知ってか。みなが私に なら って忌む先が哀れよ」
「先に春雨をお褒めになりましたな。さすれば、忌み先は雨を はら った日輪になりましょうか」
 ぼす、と笏が彼の首を打った。冗談が過ぎたのは承知だが、他人がいないと知ればこその放言だ。天地を照らす光輪の化身が帝の祖であり、この世の 理と ことわり 知らぬ者は、宮中に入ることすら叶わぬだろう。
「そんな世を望むか、お前は」
「我が首だけならまだしも、妻子どもの先は案じておりますとも」
「まるで朕が非道のようではないか」
 しかし気に召したらしく、笏はつと彼の肩に戻り、離れた。
 ようやく帝の御前にひれ伏すことができた。
「朕が を天の糸と呼ぶのは 座興 ざきょう ではないぞ」
「では反物比べは中止になりましたか?」
「一番は 冠で かんむり 決まるのだ。面白いと思うか?」
 うんざりした顔にいいえと答えるのは役職であり私心である。退屈だ、つまらぬと宮中の暮らしを憂う帝の心を映す鏡であるが ゆえ に。
「素晴らしい物揃いだったのでしょうな。私などが見れば目が潰れてしまうでしょう」
 ああ、怖やと そで で顔を覆うと、笏が鳴った。 おそ れ多いことに、帝が御自らの 腕を かいな 打ち、思いのほか力が入ったようで眉をひそめている。
錦に にしき 金銀を用いようとも、 自然 じねん の雨が織る光に敵うものか。あやつらは口では 天地 あめつち に敵わぬと言うが、朕が褒めねば次は 白玉 しらたま 紅玉 こうぎょく を求めてくるに違いない。ただの あさ の糸目に出ずるわずかな みょう を愉しめる者こそ、朕の側に欲しいのだ」
「戒めであられましたか」
 しかし帝も感極まって こと に踊っている。帝の仰せの自然の美も良いが、多くの人がもてはやす絹や ぎょく の美しさは当たり前に美しいのだ。
「朕にもの申したくば申せ。そのためのお前ぞ」
 上から降ってきた 玉音 ぎょくおん に、彼は今の表情を隠すため 拱手 きょうしゅ した。
「決してそのような」
「では役目果たせず、任を解かれて故郷に にしき を飾るか?」
 今までの労に報いて れてやる錦ならあると笑う帝に、ささやかにも生じた抵抗を諦める。
「さすれば、いささか……」
 春雨は細く絶え間なく続き、彼もまた絶えることなき問答に明け暮れた。



2022.03.31