鬼は外、福は内。聴き慣れたフレーズがあちこちから聞こえる。
二月三日の節分に豆まきで鬼を
よその家から聞こえてくる豆まきの声を聞いていると、博の家にも鬼が来た。鬼といっても、鬼役だ。
「はいはい。鬼が来ましたよ。お待たせさん」
待ち構えていた両親と博は、どきどきしながら挨拶に向かう。村長の手作りの鬼の面の下で、本物の村長の顔がにかりと笑う。
「ここで最後だね」
「はい。今年も、ありがとうございます」
「お陰様で、この冬も心配なく過ごせます」
父親がそっと村長の
村長は袖の下を確かめることなく、両親の腰あたりから見上げる博に目を
「博かい。ようやっと、ここまで大きくなったかね」
「その節は、村長のお陰で。本当にありがとうございました」
両親が深々と頭を下げる。博にはちょっと難しいが、時期ハズレとか遅生まれとか型破りという言葉をちらほらと聞いたことがある。どうも両親がいけないことをしたのを、村長が子供に罪は無いからと
「いやいや。わしも時期が悪ければ、この子のようにあれこれ言われてしまったかもしれん。何度も言ったが、もっぺん言うぞ。子供に罪は無いんだ。なあ?」
父親よりも
「ありがとうございます」
意味はよくわからないが、博が言うのに村長は目を細めた。
「子供はええぞ。博がおるから、また時期はズレるかもしれんが、
「は、はあ」
両親ともにちょっと照れた。なんとなくいけない気がして、博も
「おっと、いかん。日付が変わる前に済ませにゃ。支度はいいかね?」
「はい。いつでも。博、豆、持ってるわね?」
母親に言われて、博は手にした袋の中身を探った。
「ようし。ええか、今からおじさんは鬼だ。鬼は全力で外に追い出さなきゃならん。家の玄関口や庭じゃぬるい。ずっと、うんと外れにな」
鬼の面を被り直した村長が身振り手振りで説明する。その手の指すところを見るに、隣の家のその隣の、もっと遠くの集落の果てまでを指しているようだ。
男が鬼を追い、女は家の中で魔除けを支度して飾る。昔からの習慣で、鬼役のおふざけの
「そうだぞ博。今年はお前がこの家の鬼を
「あら、あなた、それは言い過ぎよ。博、鬼がもう二度と悪さをしないと約束したり、泣いて逃げるようなら、見送りなさい」
勇敢な父親に比べて、母親は少し優しい。でも言っていることはそう変わらない気もする。どっちにしろ、鬼は追い払わないといけないらしい。鬼は人に悪さをするのだ。
「では始めようか」
鬼の面の下で口元が笑った。
どうやら豆まきには博が教わっていないルールもあったらしい。集落を順々に回ってくる鬼役を各家で追い払い、最後の番になった家は集落の外まで追い出すというのだ。鬼役の村長が外に向かってまっしぐらに駆けていったときに父親が思い出して、うっかりしていたと叫びながら博に追いかけて豆をぶつけるよう
雪が降り続ける二月の夜道は、雪かきの跡が白い壁になっている。鬼はわざと時々立ち止まっては、博が追いかけてくるか確かめているらしい。そして豆を投げつけられる位置まで追いつくと、また逃げる。きっと遊びが本気になってきているのだ。だんだん、博の位置を確認する作業がおざなりになってきた。
雪で村長の体も大半が隠れている。博は鬼の面から突き出た二本の
ある時、不意にその動きが止まった。追い詰めたかと思って距離を詰めると、それはプラプラと頼りなく揺れる二本の枝だった。
「え?」
近づくと、それは雪の
「じゃあ村ちょ……鬼は?」
振り返っても、曲がり角の所為で集落の様子すら見えない。慌てて駆け戻る博の手から煎り豆の袋が落ち、雪に埋もれていった。
そして、迷った。何度目かに
「ふにゃ……」
思わずため息が漏れた。しっかりと握っていたはずの豆を落としたことに気づいたからだ。豆まきの後で、両親と一緒に夕食を食べる予定だった。だから鬼に喰らいついてやる気持ちでと、昼ご飯は軽めだったのに。
意識すると、くうう、と情けない音をたてて腹が鳴った。座り込んだ地面はふかふかだ。寒すぎると雪も溶けないと父親が言っていた。しかし空腹ではいけない。何か腹に入れないと。何か。
──がさり。
どこかで
次に顔を上げると、今まで何もなかった所に、鬼がいた。
「え、え……うわっ!」
博が驚いて後退したのも無理はない。それは村長の変装ではない。集落の誰にも似ていない。まごうことなき鬼だった。大きな体だ。夜空を見上げるようにしなければ頭のてっぺんまで見ることができなくて、博の顔に雪が降ってくる。
鬼と目が合う。もちろん初めてだが、
「冷たいよう」
「うう……」
鬼は
──怖い。
この状況で
博は足を踏ん張り、震えを
「あっち行け! うううう……」
喉の奥から声が
「うう……」
鬼が
──鬼に勝った!
博は確信した。
恐怖が転じて、勝利の喜びとなる。興奮が全身を駆け巡り、博は大きく
「やったあああ! あ、待て! 逃げるな!」
村長の変装ではない本物の鬼だ。追い払ったという事実を皆に伝えれば、きっと
わかりやすい鬼の証明。博は村長の時と同様に、鬼の角を探した。その鬼の角は額の前に突き出た風変わりなものだが、角には違いない。巨大な鬼の体を一人で運ぶなんて、大人たちでも難しい。もちろん博には無理だ。
「逃げてもいいけど、角を置いていけ!」
村長も速かったが、鬼の足はもっと速い。博が全力で追いかけても、瞬く間にその姿は雪景色に隠れた。
一面の白に目が
「うう?」
驚いた鬼が博を見下ろす。追いつかれるとは思っていなかったらしい。鬼が
「うう……」
噛まれたことで鬼がぶんぶんと足を振るが、振り落とされまいと力を込める。どうしても博が離れないので、鬼は途方に暮れたような声を漏らした。
──やった。これで鬼は逃げられない。でも、角を置いてけって言えないなあ。
そこまで考えていなかった博がどうしようかと思っていると、鬼がおもむろに何かを鼻先に近づけてきた。
──なに、これ? 良い匂い。美味しそう。
食べ物だとすぐわかった。空腹感が猛烈に訴えてくる。ぐうぐうと腹が鳴りそうで、目で追ってしまう。
鬼は博の鼻先でその食べ物を何度か動かすと、不意に遠くに放り投げた。
──ああっ! 鬼のご飯だ!
ぽーんと
何個か目で、博の我慢が限界にきた。鬼の足を蹴るようにして、飛んでいく美味しそうな匂いを追い、追いつき、
──おいしい、おいしい。あ、ここにも! おいしい!
背後でがさりとまた音がした。振り向くと、ご馳走の山ができている。喜んで食べ、そのうち満腹になって、ごろりと横になる。
──お腹いっぱい。あれ、何してたっけ?
満腹になると何もかも忘れてしまうのは博だけではない。両親もご近所さんも、お腹がいっぱいになると転がって寝るものだ。
鬼はどうして鬼と呼ばれて嫌われるのか。
もっと小さかった頃の博は、幼馴染の
同じ頃に生まれたとはいえ、美晴は博よりも半年ほど前に生まれた分だけ博識だった。無知な博を笑うことなく、あれこれと教えてくれて、姉のように振る舞った。
鬼のことを訊いた時も、美晴は賢そうな瞳を輝かせて笑顔になった。
「それはね、博。鬼が意地悪をしたからよ」
「意地悪? 鬼の意地悪って、何?」
「聴きたい?」
「うん」
すると美晴は博を村長の家の裏手に連れて行った。そこは集落の墓に続く茂みがあって、大人でも避ける場所なのだが、だからこそ鬼を見る事ができる者に
墓ではなく入口の茂みの片隅に無造作に積まれた石がある。美晴は博に大人が来ないか見張らせながら、その石の辺りを掘り起こした。
「何、それ?」
「わからない。でも、おじいちゃんはこれが鬼の意地悪の証拠だって。自分が死んだ時に、鬼に叩きつけて後悔させてやるんだって言ってた。言っとくけど、これは内緒よ」
美晴の手には、
何なのかはわからないが、証拠があるなら、本当に鬼が村長に意地悪したのだろう。そして村長が鬼を見分けられるのも、鬼に会ったことがあるからなのだ。
「えっ。村長、死ぬの?」
「バカ言わないでよ。おじいちゃんが死んじゃったら、お父さんもお母さんもおじさんやおばさん達も、泣いちゃうじゃない」
私も泣くから、と美晴は言うと、そのプラプラを元通りに埋めた。
「でもね、おじいちゃんは、最初は鬼が好きだったんだって」
「え? 意地悪されたんじゃないの?」
「ううん。初めは優しかったって。ご飯を食べさせて、寝泊りさせてくれて。でも、急におじいちゃんに意地悪なことして、その後は会ってないみたい」
美晴も村長から詳しい話を聴いたわけではないらしい。が、こんなことも話した。
「そういえば、おじいちゃんは、鬼にもいろいろいるって言ってた。優しい鬼と、怖い鬼とか、意地悪な鬼がね。もし優しい鬼なら、おじいちゃんが会った鬼かもしれないから、その時は教えて欲しいって言ってたわ」
「鬼にもいろいろいるんだね」
「そうみたいね。でも、
とにかく鬼は怖く、嫌われて当然の意地悪なんだと美晴は言った。博はずっと、鬼のご飯はどんな味がするのかと考えていた。
ぼんやりしている博が怖がっていると勘違いした美晴が声をかけてきたとき正直に答えて、叱られた。そういえば美晴の家のご飯は、集落のどこの家よりも美味しい。村長がご飯の作り方にうるさく、美晴まで美味しいご飯の作り方を習ったらしい。
「僕、また美晴のご飯が食べたい」
「食い気ばかりね。まあ育ち盛りだし、良いけど。おじいちゃん達より喜んでくれるし」
博の手を引いた美晴は、後でこっそりとご飯を食べさせてくれた。美晴が言うには、鬼のご飯は美晴のご飯よりも美味しいらしい。
一度でいいから食べてみたいと思っていた。鬼のご飯を。
「おや、起きたよ」
美晴ではない声がした。ぼんやりと映った天井が徐々にはっきりとしてくる。博の家でも、美晴の家でも、村長の家でもない。
見上げていた場所に白いものが映り込んで微笑んだ。
「うわ、
「違うわよ。
俊介は父親の名前だ。白無垢はあだ名で本名は桜というのも、博は知っている。ただ、いつも白い着物を着ている彼女には白無垢の方が似合っているので、集落の皆がそう呼ぶのを真似ているのだ。
だが白無垢の家には今まで出入りしたことがない。何故ここで布団に寝かされていたのかと博が首を傾げるのに、白無垢が答えた。
「覚えてないの? あなた、村の外れで倒れていたのよ。お腹をぽんぽんに
白無垢はおかしそうにころころと笑った。白い着物の
「あ……」
確かに、寝て起きたのに空腹感がない。お腹いっぱい食べたからだ。
「白無垢が見つけてくれたの?」
「桜だったら。いいえ。村長よ。鬼のお面を被ったままで、慌ててあなたを運んで来たわ」
「村長が? あっ、そうか」
鬼役の村長を追いかけていたのを思い出した。節分の鬼祓いの最後を飾る大事な仕事だったのだ。ついでを言うと、この白無垢こそが節分以外では鬼祓いとも呼ばれている。鬼も敵わないほど賢いからだ。
「後でお礼を言いなさいね。鬼に優しくされたんだから」
白無垢はにっこりと笑うと、もうしばらく寝ていなさいと言った。彼女が引っ込んだ奥の方から、村長の声が聞こえる。
──本当に白無垢と村長は、仲が良いなあ。
集落の噂には、村長が本当に好きなのは奥さんではなく白無垢だなんて話もある。こういうシーンに出くわすと、本当にそうなのかと思ってしまう。さすがにこんなことは、両親にも村長の孫の美晴にも訊けない。
そんなことを考えていると、村長が出て来た。
「博。わしは鬼を祓うなら、外れまで追わなきゃならんと教えたんだ。覚えているかね?」
「うん」
「追いかけたはいいが、途中で見失ったんだな。その顔は」
布団の傍に座った村長は苦笑いしつつ、無事で良かったと博の頭を撫でた。
「しかし、わしでなければ、何を追いかけたんだね?」
「鬼です」
「そりゃあ、わしだ。ええか、怒らんから、本当のことを言いなさい」
納得していない村長の側に白無垢が戻ってきた。二人の話を聴いていたらしく、小首を傾げる。
「ねえ、村長。この子の言ってる鬼って、本物じゃない?」
「桜、お前まで。この真冬に本物の鬼が来るもんか」
「でも、この子、お腹いっぱい食べていたわ。豆まきの豆を全部食べても、あんなにぽんぽんにならないわ」
「うむ? うーん、確かに……口元からも良い匂いがしとったが」
白無垢の真似のように首を傾げた村長は、博の顔を覗き込んだ。
「博。良い子だから全部、おじさんに話してごらん?」
「やだ、村長。おじさんじゃなくて、おじいさんでしょ」
「いちいちうるさい桜め。いいだろ、このくらい。心はいつでも
村長は真っ赤に照れながら白無垢に言い返した。
「三郎ちゃんというのはねえ……」
「教えなくていい!」
叱られた白無垢が子供みたいに舌を出す。後でちゃっかり教わったが、三郎ちゃんというのは、村長が鬼から貰った名前らしかった。
がちゃんと音を立てて、重い扉が閉まる。更にその向こうにある二重扉を開いて戻ると、相棒の
「おかえりなさい、
「ありがと。いや、ちょっと予定外の事が起きたから、早めに戻っちゃったよ」
礼を言いつつ、白木は紅茶を飲む。冬の外回りから帰った後の飲み物にはたっぷりと甘味が入っていて、今日のはストロベリージャムだった。
温かい屋内は外の環境が別世界のように、冷えた体を
「予定外? 何かありましたか?」
「いや、そんなに一大事とかじゃないけどね。子供がいたんだよ。こんな時期なのに」
イチゴの種が歯の間に
この自然保護区は、冬季は基本的に閉山となるが、学術調査などで調査員が山に立ち入ることはある。白木はこの道十五年目のベテラン扱いで山慣れしており、担当地区が比較的安全なので、天候などと折り合いをつけつつ、山入していた。
白木の担当地区には十年前からタヌキの群れが住んでいて、ボスにあたるタヌキは幼獣の頃に人間に飼われていた個体だった。野生生物をやむなく保護するのではなくペットとして飼うのは違法であり、タヌキもその対象だ。飼い主の老人は赤ん坊の頃から世話した
その時に老人と交わした約束で、白木がそのタヌキの生涯を追うことになったのだ。そうでなくとも、あのタヌキの群れには興味深い点が幾つもあった。タヌキというのは家族愛の深い動物とされるが、あの群れにいるのはタヌキだけでなく、一匹の白ギツネも混ざっている。そちらは白木が保護したもので、山中で発見時に重度の
「ええ? 三郎ちゃんの子供ですか?」
井中が少し嬉しそうに訊いてくる。三郎というのは例の老人が飼っていた仔ダヌキの名前だ。
「いやいや。三郎ちゃんが大人になってから十年だよ。人間ならお
「それもそうですね。でも、今の時期に、一体なんで。って、白木さん、ズボン、どうしたんです?」
「見つかったか。いやあ、その子供に噛まれたんだよ。子供の歯だから、全然痛くなかったけど。無理して高いパンツにして良かったよ」
ズボンの表面で
「じゃあ、これが歯型ですね。うわ、本当に仔ダヌキだ。秋生まれくらいでしょうか? 珍しいですね」
「たぶんな。全然離してくれないし、親が近くにいたらどうしようかと思ったよ。できるだけ自然にってのが理想だしな」
タヌキの
「へー、どうやって離させたんです?」
「ドッグフードを見せたら、気に入ったみたいでな。バラ撒いて逃げてきたよ」
「なるほど。じゃあ、次に行った時も、その手でいきましょうか。それにしても、三郎ちゃんもドッグフードが好きだったらしいですよね。タヌキの口に合うんでしょうか」
「さあな。あー、桜、元気かなあ」
白木にとってはタヌキ同様に白ギツネも大事だった。十年前に老人が涙ながらに仔ダヌキを手放せないのだと訴えた気持ちがわからなくもない。一度世話して、心を許した証に手から
白ギツネの皮膚には疥癬による後遺症で発毛しなくなった箇所があった。そこが地肌のピンク色を覗かせるので、桜と呼んでいたのだ。自分の名前も聞き分ける賢い個体だった。だから情が移ったのだ。
「きっと元気ですよ。三郎ちゃんがついてますし」
「バカ。キツネとタヌキだぞ。三郎ちゃんの子供はお前も確認しただろ。結ばれるのは無理だよ」
「いや、別に繁殖して欲しいとまでは思ってませんけど」
しかし白木の車のキーには、未だに桜の抜け毛で作ったキーホルダーがくっついている。一見、そこらで売っているフェイクファーのようだが、それにしては不格好で、薄汚れているので分かる。洗えば白ギツネの美しい毛色を取り戻すはずだが、桜の匂いが落ちて、見分けてもらえなくなるかもしれないというのだ。そんなことをしなくても話通りの賢いキツネなら白木の体臭くらいは覚えてくれていると思うが、それを言った時には、だからシャンプーも変えられないとボヤかれた。
白木もタヌキを保護した老人と同じく、桜の親のつもりなのだ。野生に返して八年。まだ桜には
それを言えば怒る先輩だ。井中は余計な口を