「ねえどうして出来ないのよ。あなたなら出来るでしょ。ちょっとだけ。ほんの少しだけ借りるだけじゃない。こんなに頼んでるのに、出来ないっていうの? バカ!」
 最後の「バカ」がひときわ高く響いたので、通行人が何人かこちらに注目する。が、ほとんどが毎日そこを通行する地元の人間だ。誰が大声を発したかを理解すると、事情を知らない知り合いにひそひそ声で説明している。たまたま居合わせた他所の人間には、世話焼き好きのおばさんやおじさん連中が気さくに ささや きかける。気にしなくていい。いつもの事だからと。
 周囲の協力のお陰で誰も止めに入らない空間で、一人の女子高生が叫び、いや わめ いている。彼女が近隣女子高の制服を着用していること、声や容姿がまさに女子高生のそれであることから面識のない者でも女子高生だと分かる。今現在の表情はともかく、顔立ちは今風で可愛らしい。年齢は十七才。
 彼女が先ほどから みつくように怒鳴りつけているのが、彼女よりも頭二つ分は背の高い青年だ。顔立ちが若干、女子高生に似ている。この事態を「気にしなくていい」と判断した者達は、彼が女子高生の親公認の彼氏だと知っていた。二人並んで最初のデートという名の散歩をした日に、女子高生の幼女時代から知っている近所の住民に通報された為、対応した警察の勧めもあり、双方の親同伴で近所への誤解を解く挨拶回りをする羽目になったのだ。お陰で、今日のような揉め事があっても放置されている。むろん近隣住民は道端で転んで泣いていた年頃から見守っている女子高生の味方であるが。
 彼氏というのは二十四才の大学生。事情があって卒業できていない年齢だけ成人の彼は、七才年下の彼女に着ているシャツの胸倉を掴まれても気弱な困り顔と小声で なだ めるだけだ。
「あのな、ここ、商店街だって。おばちゃん達とか、見てるよ。な、ここじゃなくて家で良いだろ? な?」
「やだ! あなたの部屋、汚したくないもん!」
「そういう問題じゃないと思うよ……」
 相変わらず胸倉を掴まれたままの情けない男が救いを求めるように私を見る。そう、今までの解説はこの私、女子高生の 従妹 いとこ にあたる私によるものだ。私のプロフィール? そんなもの聞かなくても地球は回るし暖房はつくわ。だいいち、従兄妹と彼氏の名前だって教えてないでしょ。現在地だって教えてない。個人情報保護よ。常識よ?
 ただ、現状での私は内心、従兄妹が男選びを間違えたんじゃないかという疑念を常に抱きつつも、今の彼の言葉に賛同せざるを得ない。それだけ年下の、あ、これは言ってもいいか。年下の従妹が彼氏に無茶振りをしているということだ。
「うん。私も、ここではやめといた方がいいと思うな」
 途端に彼女が振り返る。彼氏の胸倉を掴んだまま器用に。
「……お姉ちゃんは黙ってて」
 ジト目に一瞬、 ひる みそうになる。なんだろう。この女子高生特有の自信というかオーラというか 目力 めぢから は。同じ女なのに話す前から負けそうになる。
「だって、ご近所迷惑だし」
「ニートのお姉ちゃんに言われたくないよ」
「私のは次までの充電期間だし。ちゃんと失業手当も出て」
「自己都合退職して、その後も本気で求職活動してないからニートでしょ」
 言う事は実に可愛くない。大人が仕事を辞める時にはそれなりの事情があると話したこともあるが、この従妹は真面目な顔をして聴いた後、つまり無職だけど年齢的にニートかな、と笑った。そういう従妹だ。
 ついでに言うと、退職して社宅を追い出された私はこの従妹の家にお世話になっている。立場的にも強く出ることは難しい。彼女の親御さん、つまり私の 伯父 おじ 伯母 おば からは、暇なら彼女が問題を起こさないか、彼氏と一緒に見守って欲しいと頼まれている。彼女を見守る限り生活費は請求しないと言われて甘えているのが私だ。自慢にならないのはわかってる。何も言わないで。追い出されるまでは甘えてやるわ。
「ニートだから何よ。状況判断力には影響しないわ」
「お姉ちゃん、この間、酔っぱらって『やっぱり辞めるんじゃなかった』ってブツブツ言ってたじゃない。判断ミスじゃないの?」
 この際、従妹の発言はスルー。相手をしたら負ける。
 私は従妹の頭を通り過ぎて彼氏の方を見るようにした。
「いくら公認でも、人前で恥ずかしい事はダメ。ご両親が恥をかくじゃない」
「それも見越して、私達を信じてくれてるんじゃないの」
「あなた達の行動が、周りの子達にも影響したら? その子達の親御さんが厳しい人だったら、別れされられちゃうわよ。あなたの真似をしたって言う子、絶対いるわよ」
 畳みかけると、従妹はさすがに考え込んだ。自ら恋愛を楽しんでいる立場から、彼氏と別れさせられたらと想像したのかもしれない。
 実は従妹と彼氏が公認になる前には、両者の親御さんと私を巻き込んで揉めた。揉めまくった。主に彼氏がその時点で大学の卒業二年遅れが決定していたのと、当時十五才の従妹が話し合いの席で将来最低でも二人は子供が欲しいと発言した所為だ。彼氏の方は本人の責任ではない事故で通学できなかった事情があるが、従妹の発言は彼女の幼さを全員に周知させた。未成年で、親の庇護下にある身で何を言うのかと従妹の父親が激怒したところで、彼女が「付き合えないなら死んでやる」とどう見ても本気の顔で言ったので、他が折れたというか、娘に甘い伯父が彼氏と私に頼み込んできたのだ。娘を暴走させないで欲しいと。
 大騒ぎして得た彼氏だ。こんな調子の従妹にもこの関係を大事にしたい気持ちはあるのだろう。大きなため息をつくと、不満そうに言った。
「わかった。でも、家で。絶対だからね?」
「あ、ああ……わかってる」
「私も行くわよ?」
 彼氏の声に被せて私が言うと、それには特に従妹は文句もないらしい。
「わかってるよ。というか、できればお姉ちゃんにもやって欲しいんだけど」
「ええ……」
「だって、その方がリアルじゃない。それに、私なら平気だし?」
 自信に満ちた目が私を見返す。
「わかってるけど、それでも痛いんだろう? 俺はやっぱり、気が進まないけど」
「仕方ないじゃない。それしかないんだから」
 私達三人の間でだけ説得力を持つ台詞を吐くと、ようやく従妹は彼氏の胸倉から手を放して、彼女の家へと歩き始めた。
 後を追いかけた私達はバカみたいに急いで、途中で時々、顔を見合わせた。

 従妹の部屋には彼女の母親が出入りする。たまにノックを忘れるので、プライバシーが完全に保たれた私の部屋に戻った私達は、彼氏と私とで前後に従妹を はさ んで立った。二人の手にはここに常備してあるネイルハンマーがある。頭部が打面と釘抜きになっているやつだ。ホームセンターで税込み千五百円以内で買えるそれを構える私達に、従妹が合図を送る。
「やって」
 もう何度もした。大丈夫とわかっていても、その瞬間は緊張する。私は振りかぶったネイルハンマーが手からすっぽ抜けないように力を込め、目の前にある従妹の頭へと振り下ろした。
「……っ!」
 私ではなく彼氏の方から小さな呻きが漏れる。両腕に すが った従妹の指の爪が喰い込んだんじゃない。彼女をネイルハンマーで殴ることを 躊躇 ちゅうちょ した声だ。それでも私にタイミングを合わせたのは、同時でないと従妹が余計に辛いと知っているから。そういうところが憎めない。気弱だけど他人の痛みは理解できる男だってわかる。
──ゴッ。
 鈍い音がして、普通なら従妹の頭部は前後からの打撃に傷つくなり 陥没 かんぼつ するなりするんだろう。でも、彼女は全くの無傷を保ったまま、静かに彼氏の支える腕の中に倒れ込んだ。血も流れない。そうに決まっている。
「……大丈夫?」
 しばらくして彼氏が声をかけた時には、従妹は一瞬だけ閉じた まぶた を開いていた。
「……へーき」
  つぶや いた従妹がため息を漏らす。
 簡易式トリップ。原始的手段による気絶。他に何と言えばいいんだろう。とにかく彼女は一時的にでも気を失う必要に駆られた時には、こうするのだ。頭部への衝撃で彼女が傷ついたり、万一、絶命することはない。ただ、継続していた意識が途切れる。睡眠ではない物理的な要因によって。
 そうすることによって、従妹は「新しい世界」を手に入れているという。説明されたけれども私にも分からない。ただ、これをやった後の従妹は妙に落ち着いていて、私なんかよりも大人びて見える。本当に、新しい世界とやらに再接続したように。
「お姉ちゃん、ありがとう。あのね……」
 従妹がとりとめもなく話し始めたことを私と彼氏で書き留める。スマホだとデータの流出が怖いと従妹が言うので、 今時 いまどき 手帳にだ。
──〇月●日、■■で……。
 書かされるのは日時と事象。どこそこで何かの事故が起こるとかが多い。だいたいはこの地域の事故だが、中には離れた場所の事故や災害もある。正気の私と彼氏がこの儀式めいた行為に従うのは、書き留めたことが事実だからだ。予言のようだと彼氏は言うが、私には予告のように思える。何故なら書き留めた内容に従って先回りすれば、だいたいの悲劇は回避できるからだ。予言なら絶対に実現してしまうのではなかったか。
「もういいよ」
 終わりの合図と共に、従妹は今度こそ本物の眠りにつく。起きた時には何を話したのかは覚えていないので、私達が書き留めたメモだけが予告状となる。そしてそれを見た従妹は、高校をサボる勢いで被害を防ぐと言い出す。私達も振り回される。
「俺、もうこんなの、嫌なんだけどなあ……」
 寝入った従妹を私のベッドに寝かせた彼氏が私を見る。何故私なんだ。
「じゃあ、言いなさいよ。彼氏でしょう」
「無理ですよう」
 ネイルハンマーを汚らしそうに床に放り出した彼氏が嘆いた。
 そんなのは私だって一緒だ。
「床に傷がつくじゃない」
  とが めた私がネイルハンマーを拾い上げる。両手にネイルハンマー。なんて恰好だ。誰にも見せたくない。
早希 さき さんは似合ってますね」
 冗談を こぼ した彼氏は、私がにっこり微笑んでネイルハンマーを振りかざすのを見て黙った。



2022.01.30