春の陽気というが、一年を通してみればそれはさほど温かなものではない。むしろ春先は肌寒い日の方が多い。通りを歩く者の中には未だに冬のコートを 羽織 はお る者がいる。
 それでも真冬に比べれば温かな光に足取りは軽くなる。ほころびかけた桜の つぼみ から覗く色彩に心が浄化されるようだ。やがて桜色の花が開けば、コバルトブルーの空とのコントラストを当分、楽しめることだろう。

 ああ、いい 日和 だ。
 呑気にまだ灰色がかった空を見上げる男に注目する者は誰もいない。周りよりも随分と足の遅い彼に構うほど他人は暇ではないのだ。
 まして、いかにも頭が空っぽそうな顔をぶらさげて歩いている者になど。
 しかし、男の行く手に見える店の前に立つ別の男はそうでもないようだ。彼はその店の店主だった。かなりの遠方にも関わらず男を 目敏 めざと く見つけて、黙ったまま熱い視線を送ってきていた。
 どこぞの俳優にも似た顔立ちに足を止める通行人もいるが、店に入りたそうにしている者を完全に無視して、店主は男だけを見ていた。

 あくまでもマイペースな速度を保ったまま男が店に辿り着くと、ニヤッと笑う。
「久しぶりじゃないか。待ってたのに」
 男は初めて気づいたかのように顔を上げた。
 いや、本当に、直前までこの店が見えていなかったのだ。
「またここか」
 知らない店ではない。しかし、意図して訪れたわけでもないらしい。
 自分の足で歩いてきたのだろうと男を笑うことはせず、店主は自ら扉を開けて迎え入れる。
「別にいいじゃないか。今日は休みなんだろ」
「そうだが」
 吸い込まれるように店内に入った男の背後で扉の閉まる音がする。
 同時に、外界の音の一切が立ち消えた。



「コーヒーか紅茶か、どちらがいい?」
 店内に入ると店主は 不遜 ふそん なウエイターと化して注文を取った。
 別にここはカフェでもその他飲食店でもない。店内にあるのは いく つもの棚とそこに飾られた雑貨で、少女趣味なドライフラワーやリボン飾りが目立つ。ゴシックロリータ風とまでは言い過ぎだが、無精ひげの剃り残しがある男にはちょっと似合わない。
 だが男にとっては事実慣れた場所なのだ。アンティークのテーブルにつくと、よく磨かれた卓上にだらりと腕を投げ出して答える。
「コーヒー。ブラックでな」
 注文を受けたのに店主は動かない。
「たまには紅茶にしないか」
「何故だ」
「実は豆を切らしてる」
 肩を竦めた店主の態度は実にふざけているが、男は怒りもせず 欠伸 あくび を一つ漏らした。
「じゃあ紅茶だ」
「ブラックでな」
 男の口調を真似た店主が奥に声をかけると、衝立の向こうから童顔の少年が顔を一瞬だけ覗かせ、すぐに引っ込んだ。
 ひと目見ただけで忘れられないような美少年だ。だが男は少年を知っている。今更驚いたりはしない。
「あいつ、まだいたのか」
「あんたが生きてる限り存在するさ。この店のようにな」
 男の声に店主が応じる間に紅茶の匂いが ただよ ってくる。湯を沸かす間も無かったろうに、一分と経たず出てきた少年の手にはティーカップを載せたトレイがあった。
「早すぎるだろ」
 紅茶に うと い男にも、ありえない早さであることはわかる。あらかじめ れておいたとしても、温め直す時間すらなかった。
 男の前に紅茶を置くと、少年は挨拶もせずに奥に引っ込んだ。
「味は変わらないよ。少なくともあんたには違いが分からないじゃないか」
 店主の言葉に男は納得してしまう。
 そして紅茶であることだけは分かる温かい 琥珀 こはく 色の液体を含んで、なるほど紅茶だと納得する。茶葉の違いなど分かるはずもないし、分かるだけの知識を得ようとも思っていない。
「紅茶だ」
「あんたの注文通りのブラックだろ?」
「ああ」
 甘くはない。
 店主の目が小躍りしそうに輝く。
「それで今日は、何が欲しいんだ」
 その言葉に紅茶を すす っていた男がうんざりした顔を浮かべた。
「何を言ってもお前が持ってくる物は決まってるだろ」
「その通りだ」

 店主が手を叩いて呼ぶと、奥から先ほどの少年が現れた。少年よりも背の高い相手を ともな っている。
 ああ、またか。
 男は 胡乱 うろん な目をして少年の連れてきた相手を眺めた。じろじろと無遠慮な視線を注ぐが相手は動じない。
 当たり前だ。動揺する心そのものを持っていないのだから。
 それは人形だった。自力で二足歩行するロボットともいうべきものだ。引率する少年の足取りに歩調を合わせ、視界にあるものを正しく認識する機能を踏まえれば自律思考型アンドロイドともいえるかもしれないが。
 外見は成人になりたての女性の姿をした人形は、少年に促されて男の座る椅子の前で立ち止まった。
「また女か」
 美人ではあるがそれだけだ。見た目に 相応 ふさわ しく繊細すぎる。
 呟きに店主が反応する。
「男の方が良いなら交換するが」
「そっちの方が頑丈ならそうしてくれ」
「良いだろう。壊されないなら多少の協力はするさ」
 店主が あご をしゃくると、少年は人形を連れて奥に戻った。
 人形が視界から消えた時点で男は店主に食ってかかる。
「壊したなんて言うな。あれは事故だ」
 男の脳裏に嫌な思い出が蘇る。つい今しがた、起こった出来事のように。
 以前のパートナーだった人形は男の目の前で壊れた。しかし誓って、男が自主的に、積極的に壊したわけではない。
「修理に半年もかかる壊し方をしておいてか」
「半年? ちょっと待て。じゃあ直ってるのか?」
 前回に訪れたのはいつか。正確には思い出せないが、少なくとも半年以上の時間が流れたはずだ。
 今度は懐かしさが男の胸を満たす。再会できたなら、元気に動く姿を見られたなら。
 きっとまた、以前のように。

「あれはもうあんたには渡せない」
 喉元まで出かかった台詞を店主に取られる。
「何故だ」
「わからないほどあんたは馬鹿じゃないだろう?」
 静かな声に却って焦りが募る。
「せめて会わせてくれ。礼も言えなかった!」
「それはいいんだ。人間が人形に恩義なんか感じるものじゃない」
「それでも!」
 言い募る男の唇に、いきなり店主が指を突き付けた。
 口 ごも る男を店主が諭す。
「勘違いするな。あの子はあんたに怒ってるわけじゃない。ただ、あんな恐ろしい目に遭ったことを思い出させたくないんだ」
「思い出させる? ……まさか」
「ほら、あんたは馬鹿じゃない。想像できるだろ」
 記憶喪失。男の脳裏にその単語が浮かぶ。
 たかが人形じゃないかと そそのか す心の声を 後目 しりめ に、男の胸が熱く重くなる。人形とはいえ、体が壊れるほどの目に遭い、更にその原因を忘れているというのだ。
「すまなかった」
「俺に謝罪されてもな。まあ、あいつの親みたいなもんだが」
 人形職人を兼ねる店主がふんと鼻を鳴らす。
 壊れたあの人形を担いで現れた男を見た時も憤りを表に出しはしなかった。それでも作り手としての愛着はあるのだろう。

「お待たせしました」
 少年の声が割り込んだ。男と店主の話が白熱していたからだろうか。彼の そば には成人した男のなりをした人形が立っている。
 店主が顔をしかめた。
「どうしてそいつにした」
  とが められた少年は無表情に答える。
「一緒に行きたいと」
「お前の望みだというのか」
 少年の台詞を引き継いだ店主の問いに、人形が頷く。
「馬鹿な。お前はもう無関係だ。店で大人しくしていろと言っただろう?」
「なんだ。売れない奴を連れて来たのか?」
 男が問うと店主の不機嫌顔がますます酷くなった。
「ほら見ろ。こいつは覚えてすらいないんだ」
「ん? 俺の知ってる奴か?」
 店主の言葉に興味を惹かれ、人形の顔を覗き込む。
 知らないというのが最初の感想だ。それまで寄越された人形は全て若い女の姿をしていた。それは男の趣味に合わせたというより、売れる物を作る以上は自然にそうなるのだと店主が言っていたし、その説明は合理的だ。ここを訪れるのはきっと、ままごと好きな少女か、大人の独り遊びを たしな む男ばかりに違いないのだ。
 もちろん客の好みはバラバラだ。男の姿をしている人形にも需要はあるのだろうが、若い女型に比べれば遥かに少ないに決まっている。
 男の人形に見覚えは無かった。
 だが人形の方は、何やら熱心に男を見つめてくるのだ。
「無謀だ。無意味だ。お前には何の得も無い。これを認める価値すら無い」
 ぶつぶつと呟いた店主は自分の飲みかけのコーヒーカップを人形の鼻先に突き付けた。
「それでも くというなら飲め」
「おい、人形にそんな芸当が……」
 できるわけないと止めようとした男の目の前で、人形は店主から受け取ったコーヒーカップに口をつけた。確かに唇に触れたカップの ふち から口内へと黒い液体が流れ込む。
 滑らかに加工されていても、粘土のなれの果てだ。溶けるか黒い染みがつくと踏んだ男の前で人形の喉が鳴る。ぺろりと唇を舐めた人形の舌は湿って柔らかそうに動いた。
 コーヒーの濃厚な匂いが人形の内部へと薄れていく。
「なんてことだ」
 信じられないと目を みは る男の傍で、店主がため息をつく。
「俺だって信じたくない。なんであんただけは ゆる されるんだ」
「はあ?」
 疑問の唸りをあげる男を無視して、店主は人形に言う。
「まあ仕方ないか。お前は覚えていたんだ。だったら俺の出る幕じゃない」
「おい」
 考えるのを諦めたかのような店主の態度に男が待ったをかける。
 土でできた人形が飲食しているのを受け入れるというのか。
「言いたいことはわかる。だが訊くな。そいつはそういう奴だ」
 椅子の背 もた れにもたれた店主が投げやりに言う。
「製造者としての責任を放棄するのか」
「それはしない。だが、それをいうなら人形が独りで歩くこと自体に疑問を抱けよ。 まれ にあるんだ、こういうことは」
「どういうことだよ」
「あんたの ため に魂を宿した」
 うっとうしそうに店主が男を にら んだ。
「そうなったら他の奴にはやれないんだ。諦めて人生を共にしてくれ」
「壮大な話になってるぞ」
「長い付き合いにはなるだろうな。あんたの寿命分だ」
「なんだって?」
 今まではせいぜい数か月だったのだ。店主から受け取った人形たちにはそれが過ぎた途端に不調をきたす期間があって、半年から長くても一年以内にはどこかしら具合を悪くしてしまう。その度に店に戻して、別の人形を受け取っていた。
 食事も睡眠も必要としない人形たちだ。男にとっては、疲れ知らずの便利な無償家政婦を雇ったようなものだった。実際、人形たちは教えなくとも必要な家事をしてくれ、男はそのお陰で毎日快適に過ごせていたのだ。
 しかし一生となると身構えが違う。今までと違って食事もするらしいのだ。ひょっとしたら睡眠や休息も。つまり人間ひとりを新しく雇うようなものだ。
「困るよ。俺には好きな人がいるんだ」
「恋人とは言えないんだろ。告白もしてない癖に」
 全てを見透かす店主の瞳が笑っている。
「そうだ。片想いだ。だからこそ彼女に誤解されたくない」
 可憐な人だ。愛らしい笑顔を浮かべる彼女は男遊びをするような性格じゃない。だからこそ男は惚れた。それが一方的な恋だったとしても、想いの始まりなのだ。
 視界の隅で人形の顔が歪んだように見えた。
「ハウスキーパーを雇ったとでも説明しろよ。男なら彼女も安心するだろ。それとも誤解されるような土台があるのか?」
「俺はゲイじゃない」
「ならいいじゃないか」
 男の不安を知っている顔で店主が背中を叩いた。
 無責任なと思うが、これ以上言えば、やっぱり同性愛の傾向があるんだろうと軽口を叩かれそうだった。

 店を出る時、店主に呼び止められた。
 手渡されたものを見て、男は眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
 分厚い封筒の中身は一年ほども遊んで暮らせそうだった。
「あんたには金が無い。しかしそいつは飯を食えば眠りもする。そいつを養う金だ」
 売った商品のコストを支払おうという店主の奇行は今に始まったことではなく、ありがたいのは事実だ。
 そもそも男はこの店で支払いをしたことがない。サービスとして出される飲食物はおろか、人形の代金を請求されたことすらない。
 無償が当たり前になっていた。それで商売として成立するのかは男には関係ない話だ。
「わかった」
 少なくとも人形の服やベッドや当座の食糧の調達に使おうと決め、男は家路についた。
 人形は黙って、男の斜め後ろをついてきた。若い女の姿なら恋人同士に見られたかもしれないが、唇を引き結んで何を考えているかもわからない顔をした彼は、どう見ても用心棒だった。



 狭いアパートの一室で男は目を覚ました。壁際に押し寄せるしかないベッド、遮光性よりも目隠し目的で設置されたカーテンの隙間から微かに漏れる光が、朝を報せている。
「あー、またあの夢か……」
 何気なく頭を掻きながら、寝惚けた頭で考える。仕事着のまま寝てしまったらしい。
 男はどこにでもいる平凡な市民だ。中流くらいの家庭に生まれて一般的な教育期間を経て社会人になった。就職して数年後には実家を出て独り暮らししている。たまに帰省するが、親元を離れて寂しいという感情は無い。義務的に子供の役目を果たしている。
 恋人はいない。作る気も余裕もない。今は欲しいとは思わない。独りの気楽さが身に染みている。
 時計を見れば目覚ましの十分前。男にしては珍しいことだ。
 妙な夢を見た 所為 せい かもしれないと頬を撫で、ベッドから下りようとしたところで男の動きが止まった。

 床にもう一人、寝ている。
 昔、ベッドを購入する前に使っていた布団を敷き、予備の掛布に包まっている人物がいる。短い髪型から察するに男らしいが、知らない横顔に眠気が吹き飛んだ。
「誰だよ……」
 昨夜は飲んでいない。仕事が終わると真っ直ぐ帰宅した。見知らぬ他人を家に連れ込んだりはしていない。そんな無謀で危険な真似をする度胸は無い。
 男の呟きに反応するように寝ていた人物が寝返りを打った。先ほどよりもよく見えるようになった顔はタレントかホストのように整っている。ますます心当たりがない。
 呆ける男の傍でけたたましい音が鳴り響いた。目覚ましだ。
 自然に警戒心を誘う電子音が繰り返される中、寝ていた人物が まぶた を開く。
「朝か」
 見た目よりも年をとった声が聞こえた。男の父親よりも下手すると低い声だ。
 その目が自分を見たのを感じて、男はようやく声をかけた。
「あんた、誰だ?」
 不法侵入にしては堂々としすぎている。 寝惚 ねぼ けているというには目付きがしっかりしている。
 故に自分が招いたとしか思えないのだが、その記憶が無いから戸惑っているのだ。
「人形だ」
 真顔の回答に男は疑問と同情を覚えた。
「人形……それがあんたの名前か?」
 珍しい苗字もあるものだ。だが、世の中には少数派とはいえ一文字の苗字もある。珍名も しか り。人形という苗字を名乗る者がいてもおかしくはない。この名前だと御手洗や屁の苗字の家に生まれた者のように、誰もが本能に忠実な子供時代にはさぞかしからかわれたことだろう。
 納得し、更に訊く。
「その人形さんが、何故俺の家にいるんだ?」
「あんたに連れて来られたんだ」
「俺が?」
 覚えていない。だが、状況はそちらが正しいと主張している。
「鞄の中に封筒があるはずだ」
 人形に告げられ、通勤用鞄を開く。
 無記名の事務封筒が見つかった。 のり 付けもされていないそれを開いた男から血の気が引く。開ける前から嫌な予感がしていたが、大金が入っていた。帯封のついた新札だ。数えなくとも数百万はあるだろう。帯封一つが百万なら、四百万ほど。
 もちろんこんな金を持ち歩いていた原因は思い出せない。
「俺の維持費だ」
「ええ?」
「飼育料と言った方がいいのか」
 説明する人形にただ 唖然 あぜん とする。つまりこの金と引き換えに預かったのか。このどう見ても成人な男を。
 一体誰がそんな酔狂を認めたのだ。
「冗談なのか? 昔でいうドッキリか?」
「ジョークの たぐい ならもっと上手くやる。ああ、ここの家賃や光熱費はあいつが振り込むと言っていたぞ」
 あいつとは誰だ。
 人形の台詞に突っ込もうとするが、起き上がった彼は要領よく布団を畳んでベッドの足元の床に置いた。
「朝飯の支度をしてくる」
「待て。勝手にひとの家を触るな」
 当たり前に動いた人形を制して、男は冷蔵庫を開けた。
 ろくなものがない。たまに飲む牛乳と、卵が半パックほどと、あとは調味料が少々。今日は休日で、男は生活費を節約する為に働かない日は朝食を抜きにしていた。目覚ましは止め忘れただけで、休日はいつも昼過ぎに目覚めて、外に買い出しに出かけるのだ。
「何も無いな」
 背中越しに覗き込んだ人形がのんびりと言う。
「これで作れるのはせいぜいゆで卵だ」
「足りないな」
 人形は呟くと、財布を貸してくれと言った。買い出しに出かけるつもりらしい。
「なんで他人に財布を貸すと思えるんだ?」
「俺はお前の召使だ。お前の財産の一部だ。他人ではなく所有物だ」
 その言葉の 滑稽 こっけい さには男も吹き出した。
 召使? まだハウスキーパーと言われた方がしっくりくる。自らの人権を捨てた発言をするこの男は、どこか頭がおかしいのだろう。
「笑えるのは元気が残っている証拠だ。なら、一緒に行くか?」
 どこか嬉しそうに人形が言った。
 それならまだ納得できる。男は同意し、とりあえず顔を洗った。

 さっぱりした気分で小さなキッチンに戻ると、人形は真面目な顔で冷蔵庫や棚の中身を あらた めていた。
「何をしているんだ」
「メニューを考えていた。食事は栄養バランスが大事だが、お前の好みに 沿 いたいしな」
「ありがたい話だが、あんたは本当にめし……家政婦のつもりか?」
「飼われるんだからペットでも間違っていない」
「その呼び方はやめておこう」
 男はかぶりを振ると、財布を掴んだ。
「店は開いてるのか?」
「コンビニがある」
「コンビニ?」
 初めて聞く単語のような反応に、男は首を傾げた。
「まさか知らないとでも」
「いや知っている。コンビニエンスストア。実在したのか」
「……」
 一つの町中に複数が のき を連ねることも珍しくないというのに、この反応。おそらく概念や知識としては知っているが、実物を見たことがないというやつだ。
「あんたは今までどこで暮らしていたんだ?」
 よほどの田舎だ。きっと。コンビニすら無いとなると、陸の孤島状態の秘境しか思い浮かばないが。
「オーナーの所だ」
「結局何の店なんだ?」
「店には違いないが喫茶目的じゃない。客に紅茶くらいなら出していたが……」
 話がとりとめもなくなりそうなので男は さえぎ った。
「何を扱うんだ」
「人形だ」
「人形」
 目の前の人形とは別の意味だ。正真正銘、本物の、人を かたど った道具。人形店だ。
「客に茶を出すのか。きっとお高いんだろうな」
「扱うものは高級だが値段は知らない。あんたも金を払ったことはないだろう?」
「俺も行ったことがあるのか?」
 商談の途中で飲み物を出してくる店には縁が無いが。そして店でサービスを受けて金を払わなかったというのは万引きではないか。
 人聞きが悪いと顔をしかめる男に、人形が決定的な台詞を吐いた。
「そうだ。あんたは俺を買ったんだ」
 今まで感じていた微かな違和感が解決に導かれる。
 人形だの召使だの所有物だのと人権無視な発言を続ける相手の主張を正しく理解できたと自覚した男は、全身に脂汗が にじ むのを感じた。

 目覚める前の夢の記憶が蘇る。
 時折訪れる謎の店で店主と話し、商品の人形を受け取る。何度も繰り返し、夢の中では何年もの時間が経っているが、やりとりの中で男は代金を支払ったことがない。昨夜など、人形を養う為の金を受け取った。
「あっ?」
 通勤鞄から出てきた謎の封筒。身に覚えもなくそんな大金を入手するアテなどなかった。ならば。
「馬鹿な……夢なんだぞ」
 しかしどこかでキャッシングしたなら金は企業のロゴの入った封筒に入っているだろうし、明細があるはずだ。
 ベッドの上でぶちまけた鞄の中身には、それらしいものは含まれていない。そして封筒の中身の紙幣は健在だ。

「あんた本当は何処の誰なんだ?」
 誰何する男に人形とうそぶく相手は肩を すく める。
「説明したじゃないか」
「氏名、年齢、住所……勤務先もだ。無職ならそう言え」
「オーナーからはゼロ号と呼ばれていた。完成してからは三年と二ヶ月。住所は知らん。職業は人形」
 話にならない。三歳どころか三十歳だろう。それも恐らく、常識が通じない。妄想にとり かれて精神がおかしくなっている。
 観念して警察に通報すべきか。しかし大金の出所を訊かれても答えられないという弱味がある。借金しなければ男が持っているはずのない額だ。こちらが無実を主張しても取り調べは避けられまい。
 そしてこの正気を失っている人形の主張が認められれば、人身売買の証拠にされかねない。
「オーナーの店の住所は?」
「あんたの中だ」
 真顔で返答があった。駄目だ。
「ああ……休日だってのに……!」
 厄介だ。この上なく最悪の事態だ。
 一方で前向きになろうとする男の精神が別方向へと導く。幸い金はある。頭がおかしいらしいが相手の男は自分に従いそうだ。今すぐ困るということはない。たぶん、金が尽きるまでは。

 ため息をつくと、男は封筒の帯封に手を伸ばした。
「さっそく使うが、良いな?」
「俺を置いてくれるなら、あんたの金だ」
 人形もといゼロ号に一応確認してから、三枚ほど紙幣を抜き取る。男二人分の食費は馬鹿にならないに決まっている。預かり物なら、手抜きでカップラーメンや半額弁当生活というわけにもいかないだろう。空に近い冷蔵庫を埋めるほどの買い出しが必要だ。
「飯と、服か」
 ゼロ号の着ているものは若者が着るようなありふれたシャツとジーンズだ。ちょっと若作りといえなくもない。どの道、着替えが要る。サイズの問題がなくとも、下着を共有するなんて 御免 ごめん だ。
 先に朝食だけ調達しにコンビニに行き、その後で出直すか。なんとなく一日の行動プランを立て、男は玄関に向かう。
「行くぞ」
 呼ぶとゼロ号は従順についてきた。
 靴を く時に気づいたが、男の知らない靴が増えていて、それがゼロ号の靴らしかった。量販店で安く買えそうなスニーカー。高級店に並ぶ人形が身に着ける物ではないと思う。

「あんたの名前、考えなきゃな」
 靴を履く間、待ちながら呟くとゼロ号が不思議そうな顔をした。
「だってそうだろ? 数字なんて、いかにも物扱いじゃないか」
「俺はあんたの物だ」
「それ、他人の前で言わないでくれよ?」
 間違いなく誤解されると踏んで注意しておく。一人暮らしが寂しくて遂に男をヒモにしたなんて噂になれば、身の破滅だ。片想いの彼女には間違いなく避けられてしまうだろう。
「数字はいけないのか」
  に落ちない顔でゼロ号が言った。
「俺は好きじゃない。あんたを預かるうえで、数字ばかり呼びたくははない」
「わかった。あんたが新しい名前をつけてくれるんだな」
 素直に答えられて返答に詰まる。
 特に候補を考えていたわけではない。が、男の不満を受け入れて神妙にしているゼロ号を 無碍 むげ にするのも違うと思ったのだ。
 何よりゼロ号に付属している金に目が くら んだ。家賃も光熱費もオーナー持ちでそのうえ四百万。うまい話だ。
「わ、わかった。今日中につけてやる。行くぞ」
「ああ」
 嬉しそうにゼロ号が微笑む。
 男の胸のどこかがちくりと痛んだ。理由はわからない。
 しかし勝手に伸びてきたゼロ号の手と手を繋ぎそうになって妙に甲高い悲鳴を上げてしまった程度の分別はあった。



 コンビニではゼロ号の言葉が嘘ではなかったと確信した。
 外から内部が丸見えのありきたりなガラス張りの壁に驚きつつ入店した彼は、商品が 所狭 ところせま しと陳列された棚を見て目を輝かせたのだ。
 レトルトやスナック菓子、生鮮野菜まで並んでいる商品棚を物珍しげに眺め、充実したドリンク類に驚いていた。コンビニどころかスーパーにも行ったことがなさそうな反応だ。
「酒まで売ってるじゃないか。仕入れはどうなってるんだ」
「ん? あー、酒類は販売許可があれば売れるんだっけか」
 業者でもない男にはその程度の知識しかない。便利ならそれでいいという認識だ。
「けど生魚までは売ってないんだな……って、 燻製 くんせい はあるのか! 何故だ?」
「俺に訊くな」
「肉は充実してるな。ベーコンにハムにソーセージ……なんだ、サラダチキンって? 肉だよな?」
「あんまり騒ぐな」
 成人男性が二人でコンビニの店内ではしゃぐ図というのは、見ようによっては異様な光景だろう。
 イートインで雑談していた若者集団がちらちらとこちらを見てくる。視線を感じて笑みを返しかけたゼロ号の肩を掴んで、強引に他所を向かせた。
「他人と目を合わせるな」
「何故だ?」
「……世の中、善人ばかりじゃない」
 相手に聞こえないように小声で呟く。目が合っただけで因縁をつけてくる者もいると教えるには距離が近すぎる。
 真剣に言ったのが功を奏したのか、ゼロ号は頷いた。
「わかった。あんたを見ていよう」
 それはそれで注目されることになり困るが、絡まれるよりはマシだ。

「あの、海外の方ですか?」
 レジで店員が話しかけてきたのには参ったが。
 普段、男が利用する時には事務的な接客しかされていない。
「え、ええ。外国暮らしが長くて。コンビニを珍しがっちゃって、すみません」
  狼狽 うろた えつつ 誤魔化 ごまか した男に、推定二十代前半の女性店員は歓声をあげた。
「うわー、やっぱり。この辺で見ない顔だと。カッコいいですね、お兄さん」
 見られているのはゼロ号だ。つまりこれは不審者と 見做 みな されたというよりは……。
 しかしゼロ号は女性店員を無視して男ばかり見ている。
「お兄さん?」
 聞こえなかったと思ったのか女性店員は更に声を張り上げた。
「えっと、人見知りなんです。すみません」
 何故自分が謝らなければならないんだと自問しつつ、アピールに失敗したことで頬を膨らませて差し出されたお釣りと袋を受け取る。
 サービス業失格の接客じゃないかと思うがコンビニのバイトだ。店長らしい姿も見えない。クレームを入れたところで時間の無駄だろうし、そこまで理不尽な目に遭ったわけでもない。
「俺が持つ」
 途端にゼロ号が重い袋を奪った。
「あの、お兄さん! お名前は? モデルとかされてるんですか?」
「用は済んだだろう。行こう」
 再度の呼びかけもゼロ号は無視した。わざとではないと思うが。
「ありがとうございましたっ!」
 苛立った声に送られてコンビニを出た。
 春先だというのに、じっとりと汗が滲んでいる。

「疲れてるな。おぶってやろうか?」
 本気で訊いているらしいのが怖い。
「いいって……。あー、まだ睨んでる……」
 そっと振り向いたコンビニ店内からこちらを窺う女性店員の視線を見つけてため息をついた。今度から彼女のいない時間帯に来るか、利用をやめた方が安全そうだ。
「あれがあんたの敵か?」
「そういう言い方はよせ。たぶん逆恨みされてるけど」
「うっとうしいな」
 振り向いて睨み返そうとしたゼロ号を止める。
 どうやら犬のように男の感情に反応するらしい。だったらゼロ「号」という呼び名は彼に相応しいのかもしれない。



「そういえば名前だな」
 歩きながら考え、吹きつけた風に揺れた桜色に目を留める。
「桜か」
 あと数日で開こうとしている花を見て、思い浮かんだ。
桜花 おうか ……」
 呟いてから古い戦闘機の名前でもあると思い出した。子供時代にテレビで観たドキュメンタリーでたまに取り上げられていた覚えがある。亡くなった祖父が子供だった男を傍に座らせて、飽きもせず同じ番組を観ていた。
 戦争が終わって何十年も経った今、すぐに連想できる者は少ないだろうが。
「それが俺の名前か」
 割り込んできたゼロ号の声が近くで響いた。
「いや、さすがに桜花なんて、女の子の名前っぽいだろ?」
 どちらかというと屈強な男に分類されるであろうゼロ号には似合わない。
「そこに桜があるな」
 男が見上げていたのと同じ枝をゼロ号も見ている。満更でもない顔だ。
「気に入ったのか?」
「ああ」
 頷かれて思案した。預かった季節にも合っているし、「さくら」と読ませない限りは男の名でもギリギリ通用するかもしれない。本人も気に入ったと言っている。
「うーん。もうちょっと考える余地がありそうな気がするんだが」
「そこまであんたを悩ませるならゼロ号のままでいい」
 つまりそれほど気に入ったということか。
 男は観念した。「おうか」も音だけなら外で呼んでも違和感はない。ゼロなんて横文字で注目を浴びるよりマシだ。
「わかった。桜花って呼ぶぞ。変えたくなったらいつでも言ってくれ」
「ありがとう」
 礼を言うゼロ号、もとい桜花は嬉しそうに微笑み、それから小首を傾げた。

「訊いてもいいか」
「なんだ」
「あんたの名前だ」
 ぴたりと足を止めた男よりも半歩前に出てしまった桜花が、慌てて止まる。
「どうしたんだ」
「いや、知らなかったのか」
 名前も知らない他人に預けられて平然としていたのかと驚いたのだ。
 よくよく今までのやりとりを思い返せば、確かに桜花は男の名を呼んでいないが。
けい だ」
 祖父が命名したという名を答える。短くて覚えやすいと おおむ ね好評で、景自身も嫌いではない。男子の名としては妥当だろう。
 財布から免許証を出して桜花に見せると、漢字を一生懸命に見ていた。
「そういえば桜花は免許を持っていないのか?」
 気になって訊ねると桜花は芝居がかった素振りで否定した。
「人形が運転免許を取れるわけないだろう」
 まだ妄想ごっこは続いているらしい。
「あー、うん。そうだな」
 どう返事したものか。
「運転が必要なのか?」
「いや、俺は車持ってないし」
 健康保険証はと訊きかけて、やめた。この調子では似たような返事が返ってくるだろう。気疲れするだけだ。
「景は車が欲しいのか?」
「あれば便利かもしれないが、維持費がかかるしな」
 今のところ必要ないと答える。
「そうか。欲しくなったら言ってくれ」
 本当に車を購入してくれそうな顔で桜花が言う。
 嘘をついたことが無さそうな瞳に見つめられてぞくりとした。本当のところ、何者なのだろう。









 景の傍にはエプロンドレスを着た少女がいた。
 アイドルをやればきっと人気上位に食い込めそうな美少女だが、彼女はアイドルではない。従って不特定多数の信仰対象になることはなく、景の傍らで微笑んでいる。 自惚 うぬぼ れだが一緒にいる間は、その微笑みは景のものだ。
  薔薇 ばら をあしらった真紅のエプロンドレスは景が選んだものだった。少女向けのブランドでもかなり値の張る物を店員と相談しつつ購入したのだ。彼女へのプレゼントと説明したが、店員の目は終始生温かく、彼女のスタイルの良さを話す度に笑顔の口元がヒクついた。
 たぶん、その彼女は人形ですか? とでも尋ねたかったのだろう。
 疑われても仕方のない冴えなさを自覚する景は、 慇懃 いんぎん 無礼な店員の態度を咎めなかった。クレームをつける度胸も無かったが。
 しかし現実に、景の隣で少女は景の選んだエプロンドレスを見事に着こなしているのだ。ドレスの裾から覗くほっそりとして長い すね くるぶし は店員お勧めのレースとリボンをあしらった靴下に包まれ、靴もエナメルの光沢を輝かせていた。
 一応、景もスーツを着ているが、仕事着にすぎない服装は少女のパートナーというよりマネージャーだった。アイドルのスケジュールを管理する裏方。それなりに親しくなれても対等に扱われる日は来ない。
 だが周囲の目に構わず、少女は景の腕にほっそりした腕を絡めて懐いてくる。まるで恋人の仕草で。
「景さん、ありがとうございます」
 心からプレゼントを喜ぶ声に、報われる。日頃の感謝を込めて、景の収入からすると無理な買い物をした。その甲斐があった。少女の喜ぶ顔を見られるなら、これからも頑張れる。
 相手がどう思っているかはともかく、景は少女に恋をしていた。

 人目を はばか ることなく二人は寄り添って歩いた。これから電車で有名テーマパークに向かうのだ。
 車で向かってもよかったが、帰りは遊び疲れ果てるだろうからと電車にした。お陰で少女の派手な衣装は周囲から浮いていたが、既に心がテーマパークの中へと飛んでいる景にはただただ好ましく映った。まるで別世界のようなファンシーな施設に囲まれた少女は、さぞかし見栄えすることだろう。まるでその世界の登場人物のように。

 利用客の多い駅構内は混雑していた。長蛇の列になったエスカレーターを待ちきれなかった二人は階段を上ってホームに行こうとした。雑談を交わしながら、景が少女をエスコートして。









「こんなところか」
 ショッピングモール内にある庶民向けブランドの店舗で桜花の服とついでに自分の服を買い足した景は買い物袋を見下ろす。
 桜花が持つというので運んでもらっているそれは一つでは足りず、両腕の袋には下着やら靴下までぎっしり詰まっていた。購入前に試着させたので、サイズが合わないということはない。
「ありがとう」
 全て桜花のオーナーが 寄越 よこ した封筒の金で支払ったが、まるで奢ってもらったかのように礼を言われて複雑な気分になった。
「桜花の金だろ」
 着替えを考慮して多めに購入したが、セール品も混じっている。そんなに嬉しそうにされるほど高級品ではない。
「景が選んでくれたのが嬉しいんだ」
「スタイルが良いから何でも似合ってたじゃないか」
 試着室に入ると、ついてきた店員が桜花をべた めしていた。適度に付いた筋肉と締まった腰と長い脚が本物のモデルのようだった。
 せっかくなので購入したうちの一着を着せてみると、店外に出るまで専属モデル扱いだ。いや、実際、モデルのバイトをしないかと訊かれた。桜花が興味無さそうだったので断ったが。
「それに下着がお揃いだな」
 たまたま通りすがった買い物客が、ぎょっとした顔で景と桜花を見る。
「変な言い方をするな。それが安かったから買ったんだ」
 黒青灰の三色セットのトランクスなんてありふれている。下着なんて消耗品だからと二人分購入したのは間違いだったか。
「安くてもペアだ」
 にこにこしながら桜花がまた手を繋ごうとしたので、慌てて手を引っ込めた。
 さっきの客がまだ、こちらを見ている。いよいよ確信を深めた顔で。
「俺の分、やっぱり桜花にやるよ」
  咄嗟 とっさ に言っていた。見知らぬ他人に関係を邪推されるよりマシだし、よく考えたら同じデザインの下着なんて、名前でも書いておかないと洗濯した時に間違えてしまう。下着を共有するのには抵抗がある。

 その途端、桜花が酷く傷ついた顔をした。
「嫌だ」
 初めて強い口調で言い返すと、驚いて避けるのを忘れた景の手を握ってきた。
「初めてお揃いになったんだ。一緒じゃなきゃ嫌だ」
「お、おい」
 突然大声を上げた桜花に、周囲の客たちの注目が集まっている。一目見れば惹かれるところのある端正な顔立ちの桜花と、美形の連れに縋られる平凡な景。
 切羽詰った桜花の声音に周りが連想するのは、男同士の痴話喧嘩だろう。涙すら浮かべた桜花の様子を見てただの友人とは思うまい。
 昔と比べて同性愛者への風当たりは緩やかになっているので、遠巻きにされてひそひそと話を交わされる程度で済んではいるが。勝手に邪推する話し声はどうも桜花への同情が強い。
 景の表情筋が引き る。よく利用するショッピングモールなのに変に注目されたくない。二度と来られなくなるのは困る。

 まず呼吸を整えた。動揺した声では興奮した相手に届かない。
「桜花」
 落ち着いて呼ぶと桜花が顔を上げた。
「俺を困らせるのが、桜花の仕事か?」
 言い回しとしては違う気もするが、預かったなら しつけ は自分の仕事だろう。子供を諭すような気分で言葉を選ぶ。
「景……違う。俺はあんたを困らせるつもりは」
「ない、ってなら、こういう場所で騒ぐな。ここは他人もいるんだ。楽しく買い物してる連中の邪魔をするのは悪いことだ」
 我ながら白々しい偽善を吐く。本当は、他人に申し訳ないという感情よりも、他人の反感を買うことで責め立てられることを恐れていた。平穏を妨げられた者の怒りというのは、意外に大きいものだ。
 時としてそれは予想外の暴力となり、予告なしに襲いかかってくるのだ。
「他人なんてどうでもい」
「桜花。俺は闇雲に他人に迷惑をかけるのが良いとは思わない」
 反論を遮った。そのもの言いで桜花が景以外の他人をどう考えているのかがわかった。コンビニの店員を無視したのは前兆だったのだ。
  気圧 けお されて黙った桜花の目を真っ直ぐ覗き込んだ。距離が近いが仕方ない。
「俺は桜花を預かったんだ。保護者として桜花の行動に責任を取らなきゃいけない。俺を困らせたくないなら、言う事を聞け」
 そこまで了承したのではなく気づいたら桜花が自宅にいたのだが、周囲にも聞こえるように話しているので脚色気味にする。間違ってはいない。
「……わかった」
 折れたのは桜花だった。 項垂 うなだ れて景の手を離すと、叱られた犬のような目をする。
「ああ……わかればいい」
 何故か無性に罪悪感が込み上げた。景を見る買い物客たちの目が変化している。これは子供同士の苛めでも喧嘩でもないのに。
 自然に人垣が解散していく。事情を吹聴するやり方をしたお陰で、景たちへの興味を失った者が大半のようだった。人間なんてそんなものだ。合理的な説明さえ与えてやれば、公衆倫理に逸脱した関係性を露呈しない限りは他人に興味を持たないはずだ。
 ただ、その手段で桜花を傷つけた事実だけが残っている。

 歩きながら勝手に湧く反省のやり場を探していると、ふと思いついた。
「そうだ……海外からの、留学生ってことにすれば」
 これなら多少、常識外れの行動をしても、その場で景が注意すれば誤魔化せるかもしれない。幸い桜花はやたらと端正な外見のお陰で外国人に見られるかもしれない。あのコンビニの店員も間違えたじゃないか。
 小声で呟くと即席の設定を桜花に伝える。
「とりあえず、桜花は留学生ってことにしよう」
「留学生? 学校に通う予定は無いが」
「その方が皆、納得するはずだ。嫌か?」
 一瞬難しい顔をした桜花だが、さほど時間をかけず了承した。
 しかしその後で、また難しい顔をされた。
「俺は学校に通った方が良いのか?」
「いや別にそこまではな。学校に通うなら身分証明が必要だから……」
 桜花は何歳なんだろうと思う。見てくれだけなら大学院まで卒業していてもおかしくないが。顔つきだけなら 三十路 みそじ なのに、話していると本人が最初に語ったような幼児的な精神面が目立つ。さすがに三歳とまではいかないが。
「身分証はオーナーに言えばなんとかなると思う」
 ぼそりと桜花が言った。
「それなら俺もオーナーに会わなきゃな」
 そしてこの状況を何のつもりで生み出したのかと問い詰める必要がある。警察沙汰を避けて通報しなかったのはともかく、添えられた大金によって上がったテンションも下がり気味だ。
 他人と数時間一緒に過ごしただけでこの有様なのだ。日常が崩されていくのをありありと感じる。
 桜花を買ったのが景だとしても、商品にはクーリングオフがあるものだ。人間を物と断言し商品扱いするのであれば、返品も可能なはずではないか。
「景はオーナーに会ってるじゃないか」
 桜花の声に咎めの色が混じる。
「覚えがない。だいたい領収証だって無かったぞ」
「領収証の無い店だって無いわけじゃない」
「信用売りとでもいうのか? そんな店に俺が出入りできるわけがない」
「でも現に俺が買われてる」
 結果だけを突き付ける桜花にはため息しか出ない。自分を人形と主張し、景が買ったと説明した男だ。
「ん、待てよ。お前は自分の足で歩ける。ってことは、自力でオーナーの店に戻れるんじゃないのか?」
「それは可能だ。足が駄目になったりしなければな」
「だったら今戻って、俺が納得できるように領収証なりオーナーの署名なり貰ってこいよ」
 淡々とした語り口調に苛立って言い返しただけのつもりだった。まだ状況を呑み込めていない景に、一方的に真相を知っている顔で平然と接してくる。その桜花の態度が気に障ったのだ。
 桜花は無言で微かに顎を引いたように感じた。



 数秒後、景は桜花の気配が隣から消えていることに気づいた。
「……桜花?」
 隣には空間があった。ついさっきまでついてきていた桜花の姿はどこにもない。荷物ごと消えた。
 冷房が急激に強まったような感覚に周囲を見渡す。どこにも桜花の姿は無く、手当たり次第に飛び込んで探した専門店のスペースには景のただならぬ様子を怪しむ店員や買い物客がいるだけだった。
 焦った景は財布の中を見た。服を購入したレシートがあるはずだ。
 確かに、桜花についてきた数万円分の購入記録のレシートが入っていた。揉める原因になった二人分の下着セットも記載されていたし、財布に入っている金額も一致する。
 荷物を持ち逃げしたのか。だが、財布や自宅の鍵は景が持っているし、荷物を取られても金はまだ景の自宅にあるのだ。トータルで見れば桜花が損したことになる。合鍵でも作っていれば別だが。

 そうだ、合鍵……最初から仕組まれた犯罪だったらどうだ。
 俄かに自宅が心配になった。カードや預金通帳に暗証番号を書いておくような間抜けではないが、封筒の金が消えているとショックだし、不法侵入されていればそれこそ警察沙汰だ。
「くそっ! そういうことかよ!」
  にわ かに思考のピースが はま る。頭のおかしな男のフリをした誘引役が家主を外に連れ出し、その隙に仲間が景のなけなしの財産を根こそぎ さら っていく算段なのだ。
 合鍵だって、ずっと肌身離さずではない。会社で仕事中は鞄の中だ。ロッカーでこっそり抜き取られて合鍵を作られた可能性だってあるではないか。会社のセキュリティだって万能ではないのだ。同僚が犯罪者でもおかしくない世の中だ。
 景は大急ぎで駅に向かった。ショッピングモールから徒歩十分の距離にある駅から自宅まで三十分ほどだ。手際の良い窃盗犯ならものの五分もあれば他人の家で仕事を終えるというから完全にタイムオーバーだが、急ぐに越したことはない。
 電車を待つ間、乗車中、苛々と落ち着かない景を周囲がちらちらと見てくる気がしたが、怒る気になれないほど焦っていた。
 きっとあれは大丈夫だ。保管場所は徹底している。でも、何でも根こそぎやられたら……。









 頭上から声が降ってきた。唐突に。
「どけよおおお!」
 若い男の絶叫。憎悪に満ちた声に二人の世界を破られ、不快だと顔を上げた景を、横から伸びた手が突き飛ばす。
「危ない!」
 真紅のエプロンドレスの 袖口 そでぐち のレースから白い手が覗いていた。透明なマニキュアだけをつけた少女の手が景を振り払ったのだ。
 そして落ちていく。どこまでも、下へ。
「きゃああああ!」
 他人の悲鳴なんてどうでもよかった。
 景は前のめりに階段に転びながらも、反対側に向かって簡単に転げ落ちていく少女の体を眺めていた。
 滑り止めのついたコンクリートの段差が勢い良く転落する少女の体を容赦なく えぐ っていく。ゴッ、ゴッ、と鈍い音が響くが、止まらない。バウンドする華奢な体の何か所もで骨折しているはずだ。
「あ……ああ……違う、僕は……」
 すぐ傍で太った若い男が座り込んでいた。邪魔だと叫んで景と少女に向かってきた男だ。連日の猛暑で苛立っていたのかもしれないが、尋常ではない勢いで景を突き落そうとしてきた。
 少女が庇わなければ、身代わりにならなければ、景が落ちていた。
 庇われた景はその瞬間、先に起こる事を何も予想できなかった。

「あ、あんた! なんてことをするんだ!」
 正義感の強そうな年配の男が座り込んだ若い男の腕を掴んで怒鳴り付けると同時に、周囲が動いた。
「お姉さん、大丈夫ですか!」
「早く救急車を呼べよ!」
 怒号が 木霊 こだま す。
 随分と下でようやく止まった少女を心配そうに取り囲む者。駅員を呼ぶ者。スマホで救急に通報する者。
 突き落とした若い男は景を指差し、「あいつが悪いんだ」と泣き叫んでいる。股間から尿が滴り落ち、取り巻いた野次馬からうわあと悲鳴が上がった。
「大丈夫か? あの子は、君の連れか?」
 別の年配の男が景の肩に触れた。放心しているように見えたのだろう。それは正しい。
「……」
 景は少女の軌跡を見ていた。
 階段の一番下まで落ちた少女の頭から流れたものが、細い首筋やエプロンドレスの えり を濃く染めていた。乱れた髪の一部も浸っている。
 誰も少女を動かそうとしない。素人目にも頭を強く打っているのだ。
「お医者さんか看護師さん、いませんかー!」
「駅員も応急措置くらいは知ってるだろう。素人が触るな。何かあったらどうするんだ」
 衝動的に触れようとする者に、下手に動かしてはいけないと注意する声が聞こえる。
 何より少女は二度と動かなかった。救急隊員が担架に彼女を乗せた際、力の入らない腕がだらりと垂れ下がった。

 景は最初に彼を心配してくれた年配の男に付き添われて、少女と同じ救急車に乗った。
 男は親身になって景を励まし、少女の手を握るよう促した。刻一刻と蒼白に変わっていく手は冷え切っていた。
 搬送中、救急隊員は悲観めいたことは口にしなかったが、病院に着くと景たちは別室で少し待たされた後、医師から事務的に現在時刻を告げられた。
 なんで今、時間なんか必要なんだと思った。
 目の前で大勢がばたばたと動いていくのに、少女だけが戻って来ない。不意にぼやけた耳に、しっかりしなさいと励ます男の声が遠ざかっていく。



 最初から車でテーマパークに向かっていれば、おかしな男に絡まれることもなかったのだと景は思った。
 事情聴取をした警察も犯人の動機は怨恨だと言った。とはいえ、景たちがあの若い男に何かしたわけではなく、ただ美少女と連れ立っていた景に嫉妬したのだろうと。突発的なものだ。
 景が見せびらかさなければ、少女は死ななかった。
 犯人が狙ったのは景だったが、少女が庇った弾みで階段から落ちたのだ。皮肉なことに、景が少女に突き飛ばされたのは何人もが目撃したが、犯人が少女を突き落したことには決定的な目撃者がいなかった。
 皆、若い男が奇声を上げて景たちに向かっていったとは言うが、少女が突き落とされたのかという警察の質問には懐疑的だったのだ。
 景は間違いなく突き落とされると思ったし、少女もそう考えたに違いない。目撃者たちもそこまでは一致している。ただ、実際に若い男が少女を突き落とす場面を誰も見ていない。景もその瞬間だけは見ていない。
 少女が過剰に危険予測して、景を突き飛ばした挙句に勝手に足を滑らせて落ちたのだと主張する犯人は無罪にはならなかったが、殺人罪はおろか殺人未遂すら適用されなかったという。目撃者が存在しない以上、司法は犯人の主張を採用した。脅かしはしたが、少女を突き落してはいない、と。
 若い男が何の罪に問われたのかを景は知らない。
 気づいた時には引っ越していて、仕事も変わっていた。とうに少女は 荼毘 だび に付されたはずなのに、墓の場所はどうしても思い出せなかった。
 事件直後は酷く錯乱していたからと、受診した精神科の医師が言っていた。自分を守る為に記憶を消去したり、 改竄 かいざん することはよくあることらしい。大抵はその記憶があると自分自身が参ってしまうものなのだとか。消えたままでも問題ない。無理に思い出そうとしなくても、時期が来れば思い出すこともある、と 曖昧 あいまい に告げられた。
 両親は景に優しかったが、事件のことになると口を閉ざした。実家に帰ってきてもいいと勧められたが、なんとなく断った。
 ただ、一度だけ母親が妙なことを言っていた。あんなものにかまけるほど疲れていたんだね、気づけなくてごめんね、と。
 父親が何故か露骨に話を逸らしたので、何のことかは訊けずじまいだったが。

 事件後の景は抜け殻のようになってしまって、何もかもがどうでもよくなっていた。そんな自分を変える気も起こらなかった。大事なものはとっくに景の手を離れていたのだ。
 車も手放した。それなりに愛着があったが、見る度に後悔が押し寄せ、素手で殴りつけてしまうのだ。景の力で壊れるほどヤワなものではないが、血だらけになった車体や拳を近所の者に見られるのはまずい。怪我をするほど殴っても、少女が帰るはずもない。

 それでも一つだけ、捨てなかったものがある。
 あの日のテーマパークで、少女に渡すはずだった物。楽しい時間を過ごした後なら、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせていたもの。
 服よりも時間をかけて選んだのだ。そっと握った少女の指のサイズを店員に確認して、苦笑されながら。誰よりも似合うようにと。
 無自覚に実行した引っ越しの後にも、それは景の部屋に残っていた。洗練されたデザインの小箱に納められて。景の注文通り、エプロンドレスとお揃いの薔薇があしらわれていた。









 駅からの道は駆け足で戻った。人通りはまばらだが、擦れ違った者は不審者を見る目をして景を振り返る。事情を知らないのだから仕方ない。
 そんなことよりも、家だ。
 走るなんて電車に乗り遅れそうな時しかないから、景の有様は酷いものだった。服が乱れるのも構わず全力疾走でふうふういいながら自宅までの緩い坂を上っていく。息が切れて喉から舌にかけて血に似た味が広がっていたが、ぜえぜえという呼吸より目立たない。
「はあ、はあ、はっ……」
 自宅アパートの階段を駆け上がる。普段は近所迷惑になるからと足音を忍ばせているのに。数歩分を飛ぶように自宅の扉にとりついた。
 鍵はかかっていた。
 ポケットから出した鍵を鍵穴に差し込むと、緊張の所為でなかなかうまく回らなかったが、がちゃっと手応えと共に扉が開く。外開きの扉を勢いよく引いて靴を脱ぐのももどかしく思いつつ中に踏み込む。

 いつもと変わらない自室があった。
 ショッピングモールに出かけた時のまま、物の少ない部屋。カーテンはきちんと閉まっていて、桜花と取った朝食で使ったコップがキッチンの水切り かご に伏せられている。
 何も変わっていないのは明らかだったが、念の為にそこら中をひっくり返すようにして調べた。特にクローゼットの中。がらくたを押し込んだ奥に隠した小箱を。
「……あった」
 手前にあるのは景にはちょっと似合わないマフラーで。その奥にある地味な菓子箱の中に、別の小箱はちゃんとあった。
 色 せていない赤い薔薇の飾りが箱の ふた についている。震える手で開けると、中央に透明な輝石をあしらった指輪が鎮座していた。
「なくなってない……消えてない」
 目を逸らしてからもう一度見ても、指輪はそこにある。
 急に体の力が抜けて、景は床に座り込んだ。

「景」
 背後から呼ぶ声がした。
 荷物を両手に げた桜花が立っていた。
「お前……何処に行っていたんだ」
「オーナーの所に」
 桜花が封筒を差し出してくる。受け取る気分ではなかったが、ずっと顔の前にあるので仕方なしに開けた。
 領収証。
 素っ気ない印字が、真っ先に見えた。
「何だこれは」
 上質紙に印刷されたのは人形の文字とゼロの多い金額。ただしその下に手書きでマイナスの線が引かれ、差し引きタダを示している。元の値段は景の年収よりもゼロが幾つか多い。
「領収証だ」
「何のだ」
「俺のだ」
 桜花が自分を示している。馬鹿な。人身売買の契約書なんて、警察に持っていけば事件になるんじゃないか。
 しっかりと記された「ゼロ号」の文字に景はその言葉を呑み込む。更にその下には、他とは異なる筆跡で「桜花」と書かれていた。
「あんたのサインか?」
「オーナーが直筆サインもあった方が良いと言ったんだ」
 直筆なら契約書として有効か。いや、待て。戸籍名以外は無効にできないのか。一般への知名度の高い芸能人の名前とかならともかく、今日ついたばかりのあだ名のようなものだ。そもそも人身売買なんてこの国ではほとんどありえない過去の話だ。警察だってまともに相手には……。

「お前が欲しがったからオーナーが用意したんだ。手紙も」
「手紙?」
 封筒には確かに他の紙も入っている。それも複数。入場券と印刷された謎のチケットや似たような紙切れだ。
 もちろん偽造なんていくらでもできるし本物と断定する証拠は何も無いが、手紙をまず開いた。

往生際 おうじょうぎわ が悪いぞ。全てはあんたから始まったんだ。責任を取れ』
 無礼極まりない書き出しの後に、 一際 ひときわ 強い筆跡が続く。
『あの子への供養だと思えば出来るだろう?』

 意味を理解した瞬間に手紙を投げ捨てていた。無言で拾いに行く桜花にすら苛立つ。
 少女の身代わりだとでもいうのか。この無愛想で常識の無い男が。
 生きた人間の代わりになると本気で言うのか。
 つまりオーナーとやらは、景が愛した少女を忘れられないことを知ったうえで、 なぐさ みのつもりで桜花を寄越したのか。見ず知らずの他人がそんな事情を知るはずもないので、依頼したのは景の周囲の人間と考えるのが普通だ。疑わしいのは両親か。金さえ払えば友達も恋人も時間契約で作れる時代だ。桜花もそんな契約で送られてきたのだろう。景の興味を惹くようなエピソード付きで。
「ひとの書いた物を投げ捨てるのは良くないぞ」
「知るか。何様のつもりだ」
「オーナーは事実しか言っていない」
「そうだろうな。お前らが誰に依頼されたか知らないが、もう俺を放っておいてくれ」
 桜花からも目を逸らしてその場に座り込んだ。クローゼットの奥から引っ張り出した指輪が視界の端にある。
「あんたを放っておけないから、オーナーがいるんだ」
「仕事だろう? 依頼人は俺の親か? 依頼をキャンセルすれば帰ってくれるのか? とにかく帰れよ! どっか行け!」
 顔を見ずに叫ぶ景にため息が聞こえた。
「……それをお前が望むなら、俺は従うしかないな」
「当たり前だ! ここの家主は俺だぞ!」
 視界の床に桜花の爪先が近づいた。
「さっさと行けよ!」
 ショッピングモールで買ったばかりの靴下を律儀に履いていると思ったが、それすら わずら わしい。
「一つだけ教えてくれ。あんたは今でもあの子を愛しているのか?」
「当然だろう! お前らになんか触れて欲しくない!」
 景を庇った所為で少女は亡くなった。渡せなかった指輪だけを証拠に、目の前から消えてしまったのだ。
 せめて思い出の中だけでも健やかに微笑んでもらっていたのを、何も知らない第三者が けが すというのか。
「そうか。ありがとう」
 床にあった桜花の爪先が消えた。



 顔を上げると、そこには誰もいなかった。桜花が持っていたはずの荷物も、オーナーからの手紙も、封筒の金も。
 乱雑に開け放たれたクローゼットに、景は首を傾げた。大掃除でもしたかったのだろうか。慌ててひっくり返したようにぐちゃぐちゃで、何を出したかったのかもわからない。
 時計を見ると目覚ましの十分前。朝だった。
「おいおい、マジかよ……ふああ」
 寝惚けることは多いが、遂に布団も敷かずに、何かの作業途中で床に座り込んだまま寝ていたというのか。
 妙に凝り固まっている腰や膝、肘を伸ばしながら欠伸をする。フローリングの床に座っていたため尻も痛い。今日が休みで良かったと思いながら立ち上がる。

 その時、ひらりと一枚の紙が床に落ちた。何気なく拾った景は紙面の文字に訝しんだ。
 入場券、と書かれている。どこかの店の特別入場券らしいが、入店に整理券が必要だなんて、よほどの人気店か予約制なのか。
 モノだって明らかに手書きの文字を印刷した安っぽい作りのチケットだ。こんなもの、どこで貰ったというのだろう。 胡散 うさん 臭い。
 ゴミ箱に捨てようとした手の上に何かが舞い落ちた。
「……花びら? 桜か」
 風が吹き込んだ窓を見る。開けっ放しで寝たらしい。つくづく不用心な夜の過ごし方をしたようだ。
 チケットを適当に放り出して窓を閉め、冷蔵庫を開けた。牛乳と卵しかない。コンビニにでも行くか。
 けたたましく鳴り始めた目覚ましを止め、景は財布を手にした。
 外に出ると毎日変わり映えのしない青空が出迎える。ただ、春という季節はそこに街路樹の桜が加わるのだ。ささやかな変化だが悪くはないと、目を細めて仰ぎ見た。



2019.09.10