そこは清涼なる水を満々とたたえた 水面 みなも 。土地の者が たた えて「神のおわす」と呼ぶほどの湖だった。
 常には青き清浄な輝きを、特によく晴れた日には水底の白い砂や水草まで見渡せて、大小の魚たちが間をすり抜け泳ぎ たわむ れるのが見えた。漁師が小舟を出せば、どんな時でも一刻と経たず船べりにまで魚を捕まえた 魚籠 びく を積んで戻ってくる。湖のほとりに住む人々が つつ ましく暮らしていくには、それで十分だった。
 雨や風の日には、舟を出す者はいない。水面はさざ波を立てて揺れ、そのほとりに立った人々は漁が休みだと少し残念がりながらも、白く立つ波の見せる形を様々なものに見立てて遊び、歌う。
 いつの日かその歌が、湖の神を讃えるものになった。誰も見たことがないが、きっといるはずの神。人々に恵みをもたらす湖を見守る、高みの存在。
 誰それともなく言い出して、湖のほとりにはその神を祀る ほこら ができた。湖岸に流れ着いた流木と石を削り、組み合わせて小さな やしろ とした。それから毎日、祠には人々がその日一番に炊いた米と、湖の漁で獲れたうちで一番大きな魚、それに畑の収穫が供えられた。日頃の水の恵みへの感謝として、その恩恵が 千代 ちよ 八千代 やちよ に続くようにと。
 そうなると、祠の世話役が必要になると誰かが言い出した。何しろその辺り一番の収穫が集まる場所だ。噂を聞きつけた不信心者、不届き者が盗まないか心配になってくる。大事な神様への貢ぎ物が、盗人の かて になるのは たま らない。
 話し合いの最中に、思慮深い者が意見した。この湖の美しさ、豊かなことは噂になり始めている。しかし後から来た 余所 よそ 者は、今まで湖を守ってきた者のことなど考えもせず、恵みだけ奪っていくだろう。今はとても美しいが、多くの人がよってたかって恵みを奪えば、見るも無残に荒れはしないか。
 人々はその意見に同調した。余所者には小魚が大魚に育つまでの苦労は解りはしない。あれ、大きな魚がいるとばかりに、呆気なく奪い去ってしまうだろう。そして最後には魚籠の目から漏れるほどの小魚すらも根こそぎだ。奪われ尽くした湖は濁り、そのほとりに住む人々は糧も楽しみすらも失う。
 うかと手を出せないものにしよう、と声を上げたのは、派手好きの男だった。男が祠をもっと飾り立てると言うと、何人かが目立つのはいけないと反対したが、男はかぶりを振って続けた。
生半可 なまはんか だから悪人が付け入る。まことの神ならば、悪も逃げ出す」
 男があまりにも自信に満ちた言い方をするので、人々は遂に折れて、男の意見をもとに祠の世話役を決めた。十を過ぎたばかりの身寄りの無い 小娘 こむすめ で、捨て置くのも 不憫 ふびん だとそこらの 名主 なぬし になっている家が世話していたのだが、その娘にいかにもそれらしい 巫女 みこ の装束を着せ、湖のほとりに昔からあった漁師の為の番小屋を改築して住まわせた。ついでに、娘の名も小娘や娘と呼ばれていたのを「りょう」と改めた。
 生まれて初めて古着やボロではない真新しい服を まと い、五色に塗られた柱や 欄間 らんま で飾られた家を与えられた小娘は祠の世話役、巫女としての仕事を教えられ、懸命に覚えた。なにしろ毎日の食事は祠の神のお下がりで、寝床は名主よりも豪華な布団ときている。大人になっても名主の妻くらいしかできない化粧まで、髪を き花を飾り、貴重な べに 白粉 おしろい を与えらえる。巫女の白装束は着たきりではなく、小娘の世話にとつけられた女が数日おきに洗い、 しわ を伸ばしておいてくれる。幼い身には重すぎた名主の家の手伝いもしなくなり、小娘は見る間に疲れた表情から幸せに満ちた姿に変わっていった。
 言い付けを守っていればずっとここで暮らせると教えられて、 漠然 ばくぜん としか神を信じていなかった小娘もその存在を信じるようになった。湖におわす神は身寄りの無い小娘に幸福な生活をもたらした。これを奇跡と言わずして、何と言うのだろう。
 巫女らしい振る舞いを求められた小娘は、求められるままに 水底 みなそこ あるいは湖上に遊ぶ神を語るようになった。かつて人々が ささや き合ったように、白いさざ波のうねりを龍の うろこ が光ったと言い、風が波を巻き上げ水 飛沫 しぶき を上げるのを、たった今、龍が舞っていったと喜んだ。時に小舟を湖に浮かばせ、波に手を伸ばして で、 でた。
 水面は巫女となった小娘の笑顔を写して揺らぎ、その唇の紅を花のように散らしていく。



「あれにおわすは湖の神と人の申し子、龍の巫女にございます」
「はて、この辺りに巫女とな? 確かに神の噂は聴いたが、あれはただ、水遊びする小娘ではないか」
「お疑い、ごもっともにございます。さればこそ、 しか とお見届けください。あの娘ほど熱心に湖と語り、愛で、奉る者がおりましょうか」
 小娘の様子を遠目に見るのは、神の噂を聞きつけてやってきた役人と、小娘を巫女に仕立て上げた男だ。立会人として名主がいるが、役人の質問に答えているのは男ばかりである。
 よく晴れた日だった。もっと近くで見たいという役人に応えて舟を出した者達を見ても、小娘はあらかじめ教えられた通りに気高い巫女を演じ、軽く会釈してみせただけである。初めは生意気な小娘だと いきどお った役人も、堂々と 物怖 ものお じせずひたすら水面と戯れる娘を見るうち、これはただ事ではないうと考えを改めた。 下賤 げせん の者であれば役人を前にしただけで震え上がるというのに、あの小娘は挨拶もそこそこに、湖ばかり気にしているではないかと。
 ぜひ話をしてみたいという役人に散々 勿体 もったい をつけてから、男は小娘の舟の ぎ手に合図を送り、互いの舟を横づけさせた。陽の光を弾く湖面の上で上品に舟に座り着飾った巫女は、幼いながらも天女にも勝る美しさだった。そして美しさとは、優れた者に与えられる天恵と考えられている世だ。
 小娘は役人の乗る舟が近づいても、見向きもしない。役人は最初の 不遜 ふそん な態度を改め、貴人に接するように うやうや しく巫女に問うた。
「あなたの美しさはまさに天の授かりものと存じます。なれども、無知なる私の ため に、その口を開いていただけませぬか」
 役人に気づかれないようにそっと船べりを叩いた男の合図で、小娘は伏せた目を上げた。湖面の青がその瞳に映る。
 実は小娘には役人の都言葉が理解できなかったのだが、そこは男が横から口を挟んだ。
直言 じきげん はおやめなされませ。巫女は見知らぬ者、特に おのこ とは口をきかれませぬ」
「しかし、それでは話ができぬ」
「口をきかれぬだけにござりますれば、歌をしたためなされませ。巫女の言葉が歌となり、この辺りの者どもが歌い継ぐのでございます」
 詩歌は貴人の たしな み。なるほどと思った役人はさっそく従者に命じて 木簡 もっかん と筆、 すみ を用意させ、問いを詠んだ。
 人の手を介して巫女に渡そうとするのを男が押しとどめて、役人の詠んだ歌を湖に浮かべた。
「何をする?」
「巫女は湖の神と語り、そのお言葉を我らに語られるのです。いわば湖こそが巫女の五感であり、今は まなこ です」
  いぶか る役人の前で、歌を書きつけた木簡はたちまち波間に揉まれて見えなくなる。湖の神がお読みになっているのでしょうと添えた男は役人の舟を岸に戻させると、翌日には返答がありましょうと告げた。それから辺りの住民総出で盛大な宴を開き、役人をもてなした。湖で獲れた魚、その水がもたらす恵みを受けた米や畑の作物の料理など、素朴ではあるが大盤振る舞いといえる宴に役人は満足したようだった。
 ただ、宴に件の巫女の姿がないのを不思議に思い、周囲の者に問うた。
「巫女殿は宴には来ぬのか?」
「神にお仕えされる方です。人が夜、眠るのが 自然 じねん の通り、巫女は日の出と共に起き出され、日の入りと共に床につかれます」
「ふうむ……」
 はぐらかされたような思いの役人の さかずき がまた、満たされる。濃い化粧を施した名主の娘とやらがしなだれかかってくるのを かわ しつつ、癖の強い にご り酒を含んだ。



 宴の夜が更け、宿舎にて役人は考えた。
 役人は みかど より、勝手に神を かた るならば不届き者どもを制裁し、まことの神や巫女がいるなら、世の益となるようはからえという命を受けていた。神を見極めるなどおこがましいと辞退したかったが、もしまことの神や巫女を見出したのが己ということになれば、必ず帝の覚えはめでたくなり、彼を含む一族の出世も約束される。目に見えぬもの、神を おそ れる気持ちはあるが、もし皆が神や巫女と認める存在であるならば、偽者であってもいてくれた方がありがたいのだ。
──さりとて、神の証明は誰にも出来ぬ。
 役人が思うに、それに尽きた。生まれながらに高貴な者ならば、この身に絶えず触れている風や樹木にも神が宿ると教えられて育つので、こんな疑問は抱かないだろう。
 ところが彼は代々、地方の貧乏役人を務める家の出で、庶民に近い視点から世を見てきた。思いがけなく 抜擢 ばってき されて帝の命を受けるに至ったが、彼には礼儀として神を まつ る思考はあっても、心から信じているわけではない。秋から冬の寒さを しの ぐ為に木を伐った者が罰せられるのはおかしいと、よせばいいのに上役に訴え出て、その発言の面白さから帝の膝元に呼ばれた者だ。
 生まれながらの貴族とは異なる思想を買われた彼は帝から、思うが まま に話せと、 えての命を受けていた。神を信じぬ彼が認めるほどならば、それはまことの神ということなのだ。むろん、それは今このように役人が悩んでいるように、真面目な者ゆえに軽々しく神を名乗らせることはないと踏んでのことである。
 湖に沈んだ歌は至って簡潔だ。
──水面に咲く巫女に申し たてまつ る。この湖の神とは何か。ご挨拶申し上げたいが、素性も知らぬ神では失礼があってはならない。どうかご尊名をお伺いしたい。
 そんなところを述べた。土地の者が単に湖の神としか答えなかったので、致し方ないところである。水神といえば古来より龍か巨大魚と決まっているが、人 ごと きが決めつけるのは不遜の極みであり、そのような答えを帝が好まれるはずもないのだ。龍であれ魚であれ、人ならざるものを神と あが めるならば、人智の及ばぬ答えがあるはずと、都では期待しているのだから。
 返答は歌でなくともよい。このような田舎で巫女と崇められる者が読み書きできないのは当たり前。なればこそ 口伝 くでん で作法を受け継ぐ者もいる。ここの巫女を名乗る小娘の立ち居振る舞いは確かに訓練されたもの。ただ残念ながら、都の巫女や 陰陽 おんみょう 師が用いる言葉はまるで知らず、水面を もてあそ んでいた指先も文字を描くのではなく獣を撫でるが如くであった。帝にお伝えする歌は、役人が作ってやらねばならないだろう。 如何 いか に神にお仕えする巫女らしく伝えるか、当人に素養があるかなのだ。
──醜いとは言えぬが、並みの容姿に当たり障りのない振る舞い……よほど上手くやらねば、帝は満足されまい。
 上手い方法を考えるのだと従者に言い置いて、役人はひとり、夜の湖のほとりを歩いていた。昼も見事だった景色は、夜には 煌々 こうこう と輝く月を映して、波打ち際の音を響かせている。磨き抜かれた黒曜石、あるいは 瑠璃 るり はい でも、このような きら めきは見せるまい。
──うむ?
 夜の景色にしばし見入っていた役人の視界で何かが動いた。湖のほとりの祠の影に、誰かがいる。風に吹かれて揺らいだ衣装は巫女のものか。波打ち際に たたず み、遠くを見ているようだ。
 声をかけるべきかと迷う役人に、やがて巫女も気づいた。
「あなた様は……」
 男子とは語れぬ巫女というが、目が合ったのであれば仕方ない。役人は巫女の前に歩いて行った。歌で問えと昼間は言われたが、巫女が声を発したのだ。相手をせねば無礼であろうし、おそらく十二、三の齢の小娘がひとりで夜歩きは不用心と思ったのだ。
「日の入りと共に休まれたと伺ったが、巫女殿も眠れぬ時があるのですね」
 半ば皮肉ではある。帝の使いの役人が来たというのに日没を理由に宴席を拒まれたのは初めてだったのだ。
 しかし近くで見ると、舟上で見かけた時よりも更に小柄な巫女だ。胸の内で小娘と呼んでいた役人の見立てでは、まだ子供に見えた。だが神に仕える者に齢を問うなど言語道断であるし、そもそも女子だ。余計なことは訊かずにおくことにして、当たり障りのない話をしようと思った。
「私は、この湖が親や つま なのです。眠れない日も、心苦しい時も、こうしてここに立って、波の音を聴いております」
「ほう。さすがは巫女殿ですな」
 この巫女は湖のほとりで泣いていた赤子だが、育つうちに湖に懐き、湖にのみ微笑みかけるのがわかったので、さては湖の神がどこぞの娘に恋して生まれた者であろうということになり、巫女として躾けたというのだ。筋道が通っているようで、全て赤子の周りの大人の思惑である。誰も赤子を見捨てなかった事実はあるし、貧しさから口減らしに捨てられる赤子もいることを思えば善人揃いではあるがと思いつつ、役人は巫女の眼差しが湖に向くのを眺めていた。
──そうであるなら、この小娘にとって湖は恩人ともいえるか。
 相手が人でないから、人に見立てて報いようとするのか。そう思えば、いじらしい。
「そなたは、この湖が好きなのだな」
 それはそれで帝のお気に召すかもしれない。小娘が心から湖を慕うならば、終生 そば に居れるように巫女とするのも良しとされるだろう。
 すると、小娘はぽつりと言った。
「はい。ですが、全てではござりませぬ」
「ほう。どこか気に入らぬところがあるのか」
 役人相手ならば何もかも湖の気に召すままと答えるのが普通である。小娘の答えには惹かれる響きがあった。
 ちょうど月が雲に隠れ、湖が黒い湖面となるのを見つめた小娘が言う。
「この辺りでは湖に舟を漕ぎ出し、漁をして暮らしております。湖から引いた水で田畑を うるお します。多くの者は湖のお陰で不自由なく暮らしていけますが、湖によって命を落とす者もおります。私の父母がそうであったように」
「そなたは、湖の神の子ではないのか」
「お役人様、まさかあなた様まで、私を神の子と仰いますか。確かに私はこの湖の巫女とされましたが、それでは私は、 父様 ととさま たる湖に母を殺されたことになってしまいます」
「なんということを申すのだ」
  咄嗟 とっさ に小娘の声を小さくさせた役人は、誰かに見聞きされることを懸念して、巫女を散策に誘った風に歩き出した。
 大人しく従った小娘は役人に問われるまま、これまでの暮らしを語った。大方は役人の思った通りであったが、この小娘は己の父母がどのような末路を経て、小娘ひとりをこの世に残したかまで知っていた。巫女となる前に世話していた名主や大人子供に至るまでが、小娘の父母が信心深く、授かった我が子を湖の神に見せようとして舟を漕ぎ出し、不幸に見舞われたことを教えたという。巫女になってしばらくの後、どうして己なのかと問うた小娘に世話役が教えたという。むろん、小娘は聴く前よりも熱心に湖を見守るようになった。
「お前の父母は確かにいたかもしれぬ。しかし、神の子とは男女の交わりによって生まれるのではなく、ただ母やものに宿るのだ。神とはそういうものだ」
「お役人様は、神をご覧になったことがあるのですか?」
「いや……しかし、そういうものと言うではないか」
 これは珍しく さか しい小娘だ。神の証明について、何故に自身が神を見極められるかについて問われるのに初めてしどろもどろになりながら、役人は思った。貴族たちのように筋が分かっていて みやび な遊びを楽しむでもない、純粋な疑問であり、帝の命に対する禁句だ。
 つまりこの巫女とされる小娘は、神を語り神と戯れるふりをしながらも、神を信じていない。
「私のような役人にそのようなもの言いをするなと教えられなかったのか?」
「言われました。ですが、お役人様はまことの神をお探しになられているともお伺いしました。私はこの湖が好きですが、それでも神を見ることも声を聴くことも かな いませぬ。ゆえに、お伝えしようと思ったのです」
「お前の仕事は『ここに神がおわす』と言い続けることではないのか」
「言い続けます。でも、私が信じているというだけで、帝のお使いのお役人様を騙すのは心得違いと思ったのです」
 真摯な答えに役人は少なからず心を打たれた。同時にこの事が露見したならば、この正直な小娘は生きてはおれまいと思った。下賤の小娘とはいえ、役人はこの小娘の命を奪う結果だけは避けたいと考えた。他の地ならば役人を騙すことに懸命だったのに、この小娘は正直に思う所を打ち明けたのだ。
「あいわかった。お前はまことの巫女だ。だが、私はここに神がおられることを帝にご報告せねばならぬ」
「何故でしょう?」
「誰も見たことがなくとも、そなたのように熱心な者が真心をもって仕えるのであれば、それは神として扱わねばならない。そして祀った以上は、途中でやめることは許されぬ。お前は終生、この湖の神にお仕えするのだ」
 役人はやおら声を上げて従者を呼んだ。万一に備えて陰に潜んでいた者の他に、名主の従者まで出てきて平伏したのには呆れたが、 口早 くちばや に命を告げる。
「ここの神の名は無くともよい。巫女の献身によって湖は清浄に保たれている。いや今後、荒れたとしてもだ。荒ぶる神を鎮めるのも巫女の微笑みならば、決して おろそ かにするでないぞ。人柱など、もってのほかだ」
 そして従者に木簡と筆を用意させ、帝の使いとして仮の名を湖の神に与えたもうた。
── 水鏡 みかがみ ノ神 のかみ
 小舟から輝く水面に手を伸ばす巫女を思い返して付けた名だ。騒ぎを聞きつけて慌てて出て来た名主に木簡を見せると、ただただ従順な声が返った。
「巫女の務めは湖に微笑みかけることである」
 役人の 采配 さいはい はただちに実行された。



 都に戻った役人は、事のあらましを帝に報告した。神の姿は見えない、しかし見えぬ神に献身を捧げる巫女の話に帝は喜ばれ、一度我が目で見てみたいと申された。むろん巫女を呼びつけることはできない。帝ご自身がそこに行きたいと珍しく仰るのだ。
 帝の 御幸 みゆき である。都は上へ下への大騒ぎで、道案内に抜擢された役人を妬む声も上がったが、一月後には帝に追従する貴族たちも含め、多くの従者、牛車と馬が湖に向けて出立した。
 道中、帝は役人を牛車に はべ らせ、湖と巫女について質問をされた。その都度、役人は真実を織り交ぜながらも、神秘的な存在としての巫女を語った。
「早う、会ってみたいものだ」
 帝は微笑まれ、一行はその笑みを絶やすまいと、牛馬を急かした。
 やがて役人にとっては二度目の風景が見えてくる。秋も半ばの湖には 紅葉 もみじ をたたえた山々の赤や黄が映え、その見事さに皆が歓声を上げた。帝も御車をお出になり、湖を仰ぎ見て仰った。
「まこと、水鏡なり」
 湖の神が歓迎されているに違いない。早馬が名主のもとに駆け、一族郎党を引き連れた名主は道端に平伏して帝を迎えた。
「ご苦労。巫女はいかがした?」
 帝の言葉を伝える役人に、名主は顔色を曇らせた。悪い報せを帝の御耳に直接入れることはできない。 方違 かたたが えをすると 誤魔化 ごまか して名主から事情を聴くと、震え上がりながら告白した。
「巫女はお役人様がお帰りになった後で病になり、それでも日々の務めを欠かさぬ為に湖に漕ぎ出して……」
 船べりから手を伸ばしたところ、体から力が抜けて、湖に落ちたというのだ。船の漕ぎ手は男子の為、帝の使いがお認めになった巫女に触れることができず、重い巫女装束にたっぷりと水を含んだ巫女はそのまま沈んでいったという。
「なんということを。病の者を駆り出したのか?」
「それが巫女の務めと仰せでしたので」
 責任は役人にあると言わんばかりの名主に絶句しつつ、湖を見た。 わず かに言葉を交わしたきりの巫女を呑み込んだ水面は、今日もきらきらと輝いて美しい。
 しかし、いなくなったものは仕方ない。役人は帝の御前に戻り、巫女が湖の神に求められて姿を消したと伝えた。
 帝はしばらく黙っておられたが、湖に漕ぎ出してみたいと仰せになられたので、巫女が使っていた小舟に 繻子 しゅす を敷き詰めてどうにか 恰好 かっこう をつけ、役人らが侍った。漕ぐ役は、巫女が落ちた日の漕ぎ手である。
「十三ほどと言ったか。会ってみたかったものよ」
「まこと、残念にございます」
「そなたは会ったのだな。美しかったか」
「都の方々と比べると、ちと見劣りはいたしますが」
「それは妙味よ。ああ、惜しい事をした」
 この辺りだと漕ぎ手が舟を止める。風も穏やかで、身を乗り出して滑らせでもしなければ落ちそうにない。それでも帝が 御身 おんみ を水面に乗り出された時には、左右や背後に人がついた。
「冷たきことよ。巫女の顔は見えぬかの」
 指先を水に漬けられて帝が申されるが、 御顔 かんばせ が清き水面に揺れ、その声が音曲の調べの如く波紋を呼ぶばかり。役人も耳を澄ませるが、遂に巫女や小娘の助けを呼ぶ声は聞こえない。
 ただ、ひょう、ひょう、と湖面を走る風が うな る。しばし まぶた を伏せて聴き入っておられた帝は、やがて誰ともなく呟かれた。
「巫女が歌っている」
「……今、なんと仰せでございますか」
 細い声をよく聞き取れなかった役人が訊き返すと、帝はため息を こぼ され、じっと青い水面を見つめられた。
「これほど美しい水だ。そこに映った巫女も、さぞ美しかったのであろうな。だから湖の神に見込まれたのだ」
「きっとそうでございましょう」
 追従する役人に、帝の微笑が見えた。
ねんご ろに……いや、丁重に祀るのだ。巫女ももはや、ここにおわす神の 御座 みざ ぞ」
「しかし、それは」
 人であったものを神と呼ぶには、帝の御言葉だけでは足りない。都に残してきた者達、とりわけ神仏に仕える者の意見を聞いてみなければならない。
  躊躇 ためら う役人に帝は力強く頷かれた。
「そなたにも、巫女の声が聴こえぬか?」
「私めには、帝のような神秘の 御力 おちから はございませぬ」
「違う。そなたとて一度は見たはずだ。巫女の心を」
 帝の眼差しは湖面を見据え、何度も頷く。
「目に映る美と、心に見ゆるものは別義ぞ。そなたが認めた巫女の献身こそ神の求むる人の心。心に宿るのが人の語る龍なのだ」
 波間に揉まれるようにして、紅葉の一葉が流れてくる。清らかなる帝の御指先がつと伸ばされ、その葉を拾い上げられた。
「心に聴くのだ」
 もう一度、仰せになると、帝は舟を岸に着けよと御命じになった。直々の御言葉に漕ぎ手は震え上がり、大慌てに漕ぎ出した。白く波を蹴立てて進む船べりに手を添えた役人は、帝の御側で波間を見ていた。
──心に聴け。
 心の内にはまだあの巫女の姿が描かれる。都の者では役人しか知らぬ巫女は、いつの間にか岸に向かう船の 舳先 へさき に座り、儚げな笑みをこちらに向けていた。

 水鏡の神、 まれ なき龍は、帝が直参してお認めになったことが一番の決め手となり、都でも新しき神として認められた。
 後に帝が絵師に命じて描かせたその姿は湖面から水柱の如く出でそびえる青き龍であり、その前肢には龍の玉の代わりにたおやかな巫女の姿があった。年に一度の祭祀の行事には都からあの役人が遣わされ、その男が没した後も代々、務めたという。



2021.12.26