そこは清涼なる水を満々とたたえた
常には青き清浄な輝きを、特によく晴れた日には水底の白い砂や水草まで見渡せて、大小の魚たちが間をすり抜け泳ぎ
雨や風の日には、舟を出す者はいない。水面はさざ波を立てて揺れ、そのほとりに立った人々は漁が休みだと少し残念がりながらも、白く立つ波の見せる形を様々なものに見立てて遊び、歌う。
いつの日かその歌が、湖の神を讃えるものになった。誰も見たことがないが、きっといるはずの神。人々に恵みをもたらす湖を見守る、高みの存在。
誰それともなく言い出して、湖のほとりにはその神を祀る
そうなると、祠の世話役が必要になると誰かが言い出した。何しろその辺り一番の収穫が集まる場所だ。噂を聞きつけた不信心者、不届き者が盗まないか心配になってくる。大事な神様への貢ぎ物が、盗人の
話し合いの最中に、思慮深い者が意見した。この湖の美しさ、豊かなことは噂になり始めている。しかし後から来た
人々はその意見に同調した。余所者には小魚が大魚に育つまでの苦労は解りはしない。あれ、大きな魚がいるとばかりに、呆気なく奪い去ってしまうだろう。そして最後には魚籠の目から漏れるほどの小魚すらも根こそぎだ。奪われ尽くした湖は濁り、そのほとりに住む人々は糧も楽しみすらも失う。
うかと手を出せないものにしよう、と声を上げたのは、派手好きの男だった。男が祠をもっと飾り立てると言うと、何人かが目立つのはいけないと反対したが、男はかぶりを振って続けた。
「
男があまりにも自信に満ちた言い方をするので、人々は遂に折れて、男の意見をもとに祠の世話役を決めた。十を過ぎたばかりの身寄りの無い
生まれて初めて古着やボロではない真新しい服を
言い付けを守っていればずっとここで暮らせると教えられて、
巫女らしい振る舞いを求められた小娘は、求められるままに
水面は巫女となった小娘の笑顔を写して揺らぎ、その唇の紅を花のように散らしていく。
「あれにおわすは湖の神と人の申し子、龍の巫女にございます」
「はて、この辺りに巫女とな? 確かに神の噂は聴いたが、あれはただ、水遊びする小娘ではないか」
「お疑い、ごもっともにございます。さればこそ、
小娘の様子を遠目に見るのは、神の噂を聞きつけてやってきた役人と、小娘を巫女に仕立て上げた男だ。立会人として名主がいるが、役人の質問に答えているのは男ばかりである。
よく晴れた日だった。もっと近くで見たいという役人に応えて舟を出した者達を見ても、小娘はあらかじめ教えられた通りに気高い巫女を演じ、軽く会釈してみせただけである。初めは生意気な小娘だと
ぜひ話をしてみたいという役人に散々
小娘は役人の乗る舟が近づいても、見向きもしない。役人は最初の
「あなたの美しさはまさに天の授かりものと存じます。なれども、無知なる私の
役人に気づかれないようにそっと船べりを叩いた男の合図で、小娘は伏せた目を上げた。湖面の青がその瞳に映る。
実は小娘には役人の都言葉が理解できなかったのだが、そこは男が横から口を挟んだ。
「
「しかし、それでは話ができぬ」
「口をきかれぬだけにござりますれば、歌をしたためなされませ。巫女の言葉が歌となり、この辺りの者どもが歌い継ぐのでございます」
詩歌は貴人の
人の手を介して巫女に渡そうとするのを男が押しとどめて、役人の詠んだ歌を湖に浮かべた。
「何をする?」
「巫女は湖の神と語り、そのお言葉を我らに語られるのです。いわば湖こそが巫女の五感であり、今は
ただ、宴に件の巫女の姿がないのを不思議に思い、周囲の者に問うた。
「巫女殿は宴には来ぬのか?」
「神にお仕えされる方です。人が夜、眠るのが
「ふうむ……」
はぐらかされたような思いの役人の
宴の夜が更け、宿舎にて役人は考えた。
役人は
──さりとて、神の証明は誰にも出来ぬ。
役人が思うに、それに尽きた。生まれながらに高貴な者ならば、この身に絶えず触れている風や樹木にも神が宿ると教えられて育つので、こんな疑問は抱かないだろう。
ところが彼は代々、地方の貧乏役人を務める家の出で、庶民に近い視点から世を見てきた。思いがけなく
生まれながらの貴族とは異なる思想を買われた彼は帝から、思うが
湖に沈んだ歌は至って簡潔だ。
──水面に咲く巫女に申し
そんなところを述べた。土地の者が単に湖の神としか答えなかったので、致し方ないところである。水神といえば古来より龍か巨大魚と決まっているが、人
返答は歌でなくともよい。このような田舎で巫女と崇められる者が読み書きできないのは当たり前。なればこそ
──醜いとは言えぬが、並みの容姿に当たり障りのない振る舞い……よほど上手くやらねば、帝は満足されまい。
上手い方法を考えるのだと従者に言い置いて、役人はひとり、夜の湖のほとりを歩いていた。昼も見事だった景色は、夜には
──うむ?
夜の景色にしばし見入っていた役人の視界で何かが動いた。湖のほとりの祠の影に、誰かがいる。風に吹かれて揺らいだ衣装は巫女のものか。波打ち際に
声をかけるべきかと迷う役人に、やがて巫女も気づいた。
「あなた様は……」
男子とは語れぬ巫女というが、目が合ったのであれば仕方ない。役人は巫女の前に歩いて行った。歌で問えと昼間は言われたが、巫女が声を発したのだ。相手をせねば無礼であろうし、おそらく十二、三の齢の小娘がひとりで夜歩きは不用心と思ったのだ。
「日の入りと共に休まれたと伺ったが、巫女殿も眠れぬ時があるのですね」
半ば皮肉ではある。帝の使いの役人が来たというのに日没を理由に宴席を拒まれたのは初めてだったのだ。
しかし近くで見ると、舟上で見かけた時よりも更に小柄な巫女だ。胸の内で小娘と呼んでいた役人の見立てでは、まだ子供に見えた。だが神に仕える者に齢を問うなど言語道断であるし、そもそも女子だ。余計なことは訊かずにおくことにして、当たり障りのない話をしようと思った。
「私は、この湖が親や
「ほう。さすがは巫女殿ですな」
この巫女は湖のほとりで泣いていた赤子だが、育つうちに湖に懐き、湖にのみ微笑みかけるのがわかったので、さては湖の神がどこぞの娘に恋して生まれた者であろうということになり、巫女として躾けたというのだ。筋道が通っているようで、全て赤子の周りの大人の思惑である。誰も赤子を見捨てなかった事実はあるし、貧しさから口減らしに捨てられる赤子もいることを思えば善人揃いではあるがと思いつつ、役人は巫女の眼差しが湖に向くのを眺めていた。
──そうであるなら、この小娘にとって湖は恩人ともいえるか。
相手が人でないから、人に見立てて報いようとするのか。そう思えば、いじらしい。
「そなたは、この湖が好きなのだな」
それはそれで帝のお気に召すかもしれない。小娘が心から湖を慕うならば、終生
すると、小娘はぽつりと言った。
「はい。ですが、全てではござりませぬ」
「ほう。どこか気に入らぬところがあるのか」
役人相手ならば何もかも湖の気に召すままと答えるのが普通である。小娘の答えには惹かれる響きがあった。
ちょうど月が雲に隠れ、湖が黒い湖面となるのを見つめた小娘が言う。
「この辺りでは湖に舟を漕ぎ出し、漁をして暮らしております。湖から引いた水で田畑を
「そなたは、湖の神の子ではないのか」
「お役人様、まさかあなた様まで、私を神の子と仰いますか。確かに私はこの湖の巫女とされましたが、それでは私は、
「なんということを申すのだ」
大人しく従った小娘は役人に問われるまま、これまでの暮らしを語った。大方は役人の思った通りであったが、この小娘は己の父母がどのような末路を経て、小娘ひとりをこの世に残したかまで知っていた。巫女となる前に世話していた名主や大人子供に至るまでが、小娘の父母が信心深く、授かった我が子を湖の神に見せようとして舟を漕ぎ出し、不幸に見舞われたことを教えたという。巫女になってしばらくの後、どうして己なのかと問うた小娘に世話役が教えたという。むろん、小娘は聴く前よりも熱心に湖を見守るようになった。
「お前の父母は確かにいたかもしれぬ。しかし、神の子とは男女の交わりによって生まれるのではなく、ただ母やものに宿るのだ。神とはそういうものだ」
「お役人様は、神をご覧になったことがあるのですか?」
「いや……しかし、そういうものと言うではないか」
これは珍しく
つまりこの巫女とされる小娘は、神を語り神と戯れるふりをしながらも、神を信じていない。
「私のような役人にそのようなもの言いをするなと教えられなかったのか?」
「言われました。ですが、お役人様はまことの神をお探しになられているともお伺いしました。私はこの湖が好きですが、それでも神を見ることも声を聴くことも
「お前の仕事は『ここに神がおわす』と言い続けることではないのか」
「言い続けます。でも、私が信じているというだけで、帝のお使いのお役人様を騙すのは心得違いと思ったのです」
真摯な答えに役人は少なからず心を打たれた。同時にこの事が露見したならば、この正直な小娘は生きてはおれまいと思った。下賤の小娘とはいえ、役人はこの小娘の命を奪う結果だけは避けたいと考えた。他の地ならば役人を騙すことに懸命だったのに、この小娘は正直に思う所を打ち明けたのだ。
「あいわかった。お前はまことの巫女だ。だが、私はここに神がおられることを帝にご報告せねばならぬ」
「何故でしょう?」
「誰も見たことがなくとも、そなたのように熱心な者が真心をもって仕えるのであれば、それは神として扱わねばならない。そして祀った以上は、途中でやめることは許されぬ。お前は終生、この湖の神にお仕えするのだ」
役人はやおら声を上げて従者を呼んだ。万一に備えて陰に潜んでいた者の他に、名主の従者まで出てきて平伏したのには呆れたが、
「ここの神の名は無くともよい。巫女の献身によって湖は清浄に保たれている。いや今後、荒れたとしてもだ。荒ぶる神を鎮めるのも巫女の微笑みならば、決して
そして従者に木簡と筆を用意させ、帝の使いとして仮の名を湖の神に与えたもうた。
──
小舟から輝く水面に手を伸ばす巫女を思い返して付けた名だ。騒ぎを聞きつけて慌てて出て来た名主に木簡を見せると、ただただ従順な声が返った。
「巫女の務めは湖に微笑みかけることである」
役人の
都に戻った役人は、事のあらましを帝に報告した。神の姿は見えない、しかし見えぬ神に献身を捧げる巫女の話に帝は喜ばれ、一度我が目で見てみたいと申された。むろん巫女を呼びつけることはできない。帝ご自身がそこに行きたいと珍しく仰るのだ。
帝の
道中、帝は役人を牛車に
「早う、会ってみたいものだ」
帝は微笑まれ、一行はその笑みを絶やすまいと、牛馬を急かした。
やがて役人にとっては二度目の風景が見えてくる。秋も半ばの湖には
「まこと、水鏡なり」
湖の神が歓迎されているに違いない。早馬が名主のもとに駆け、一族郎党を引き連れた名主は道端に平伏して帝を迎えた。
「ご苦労。巫女はいかがした?」
帝の言葉を伝える役人に、名主は顔色を曇らせた。悪い報せを帝の御耳に直接入れることはできない。
「巫女はお役人様がお帰りになった後で病になり、それでも日々の務めを欠かさぬ為に湖に漕ぎ出して……」
船べりから手を伸ばしたところ、体から力が抜けて、湖に落ちたというのだ。船の漕ぎ手は男子の為、帝の使いがお認めになった巫女に触れることができず、重い巫女装束にたっぷりと水を含んだ巫女はそのまま沈んでいったという。
「なんということを。病の者を駆り出したのか?」
「それが巫女の務めと仰せでしたので」
責任は役人にあると言わんばかりの名主に絶句しつつ、湖を見た。
しかし、いなくなったものは仕方ない。役人は帝の御前に戻り、巫女が湖の神に求められて姿を消したと伝えた。
帝はしばらく黙っておられたが、湖に漕ぎ出してみたいと仰せになられたので、巫女が使っていた小舟に
「十三ほどと言ったか。会ってみたかったものよ」
「まこと、残念にございます」
「そなたは会ったのだな。美しかったか」
「都の方々と比べると、ちと見劣りはいたしますが」
「それは妙味よ。ああ、惜しい事をした」
この辺りだと漕ぎ手が舟を止める。風も穏やかで、身を乗り出して滑らせでもしなければ落ちそうにない。それでも帝が
「冷たきことよ。巫女の顔は見えぬかの」
指先を水に漬けられて帝が申されるが、
ただ、ひょう、ひょう、と湖面を走る風が
「巫女が歌っている」
「……今、なんと仰せでございますか」
細い声をよく聞き取れなかった役人が訊き返すと、帝はため息を
「これほど美しい水だ。そこに映った巫女も、さぞ美しかったのであろうな。だから湖の神に見込まれたのだ」
「きっとそうでございましょう」
追従する役人に、帝の微笑が見えた。
「
「しかし、それは」
人であったものを神と呼ぶには、帝の御言葉だけでは足りない。都に残してきた者達、とりわけ神仏に仕える者の意見を聞いてみなければならない。
「そなたにも、巫女の声が聴こえぬか?」
「私めには、帝のような神秘の
「違う。そなたとて一度は見たはずだ。巫女の心を」
帝の眼差しは湖面を見据え、何度も頷く。
「目に映る美と、心に見ゆるものは別義ぞ。そなたが認めた巫女の献身こそ神の求むる人の心。心に宿るのが人の語る龍なのだ」
波間に揉まれるようにして、紅葉の一葉が流れてくる。清らかなる帝の御指先がつと伸ばされ、その葉を拾い上げられた。
「心に聴くのだ」
もう一度、仰せになると、帝は舟を岸に着けよと御命じになった。直々の御言葉に漕ぎ手は震え上がり、大慌てに漕ぎ出した。白く波を蹴立てて進む船べりに手を添えた役人は、帝の御側で波間を見ていた。
──心に聴け。
心の内にはまだあの巫女の姿が描かれる。都の者では役人しか知らぬ巫女は、いつの間にか岸に向かう船の
水鏡の神、
後に帝が絵師に命じて描かせたその姿は湖面から水柱の如く出でそびえる青き龍であり、その前肢には龍の玉の代わりにたおやかな巫女の姿があった。年に一度の祭祀の行事には都からあの役人が遣わされ、その男が没した後も代々、務めたという。
2021.12.26